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木の下隠り :其の九

 

(―――惜しいが、今はとてもこれ以上その気になれんな)

 奈落はひとりごちた。乱れた長い袖からのぞく投げ出された手は爪の先まで透きとおるよう白く、文様の紅色さえ色あせて見え、手の甲に青磁色の血管が薄く浮いてみえていた。自分は少し殺生丸の意志の強さを見くびっていたようだ。まさか本気で自分に責め殺されもすまいと思っていたが、この調子で放っておいたら、あるいは、――――
 滑りおちた絹を肩にかけてやろうと手を伸ばしたとき、突然殺生丸の低い声がした。

「・・・明かりを消せ」
「ほ、お目覚めか」
「明かりを消せと言っている」

 また奈落が挑んでくると思ったのだろう。声は短くてひどくそっけなかった。奈落は鬼火をあたりにつけたまま、なおも相手の髪をなで、腕に軽くふれた。殺生丸の声がこわばった。

「奈落」

 抗議に耳を貸さぬまま、奈落はいくぶん荒っぽく手首をつかみ、もう片方の手で強引に脇腹をさぐった。

「奈落!」
「おいやかな」
「・・・・・・・・・」

 拒絶の言葉は返ってこなかったが、つかまれた手首は何かに耐えようとするかのようにかすかに震えていた。奈落はわざとその手を強くつかんだままにしていたが、殺生丸はその手を振り払おうとはしなかった。ただ、ただでさえ透きとおるように白い頬から血の気がひいて、いっそう蒼白く見えただけのことである。

「おいやか」
「・・・・・・」
「かまわぬのか、殺生丸さま」
「・・・・・・・・」
「苦痛ではありませぬかな。こんな疲れて弱りきった身体に、灯りの下で望まぬやり方を強いられて、それでも黙って受け入れるおつもりか」
「・・・・・・・・」

 殺生丸は何も答えぬ。不自由な左肩を下に横たわったまま、横顔に見える金色のひとみはどこか遠くの一点を見つめて動かず、無理やりに感情をねじふせたようなその無表情を、触れられた肌のかすかな震えが裏切っていた。
 奈落は少し溜息をついて、ふいに手を放した。途端に緊張にこわばっていたらしい殺生丸の全身から力が抜けるのがありありと感じられる。殺生丸自身の意図はどうあれ、その肉体はもうこれ以上自分を受け入れたくないのは明らかだった。

(それはそうだろう)

 いくら若く底知れぬ力を秘めた妖怪の身とはいえ、ここ数日の無謀な荒淫はこたえているに違いない。自分はこの美しい若い妖怪の身体を手加減なしにかなり情け容赦なく責め抜いたし、相手はまたそれをあくまで受け入れて、ただの一度も本気で抵抗しようとはしなかったこともある。

(しかし)

「だいぶんお疲れであろうに、ちと顔色がすぐれぬような」

 奈落は云った。いくぶん気づかわしげなその口調が、かえって相手の感じやすい気位を刺激したようだ。

「くだらんことを云うな」

 横たわった姿勢のまま、背中越しに殺生丸はその気配りを手厳しくはねつけた。口調はいつもの冷たくつれないそれだったが、声は喉にかかってひどくかすれていた。心はあくまで自ら責めることを強いても、体は残酷な欲情の犠牲になることに疲労しきって悲鳴をあげている、という感じだった。奈落の見下ろしている視線を知ってか知らずか、殺生丸はまた大儀そうに身じろぎすると、濃い睫毛を伏せて表情を隠してしまった。

「殺生丸さま」
「うるさい、くどくど呼ぶな」

 荒っぽくいいかけた語尾は、いらだたしげな、しかしひどく弱々しい咳にかき消されてしまう。どうしたものかというように、奈落はまたその姿を見やった。

(よく押さえ込んでいられるものだ。いくら自ら望んだこととはいえ)

 殺生丸のような気性にとって、この自分に身をまかせ続けるくらいつらい仕打ちはまたとあるまいとわかっていた。同時にそうした殺生丸の態度が、自分の気持ちをひどく傷つけているということにも、奈落は気づいていた。

(わしもずいぶん多くの妖怪を見てきたが、確かに並みの妖怪どもとは格が違うというものかしれぬわ。ふん、大したものさ、この奈落を道具代わりに使ってのけようとは)

 だが、それを言葉に出して相手を責めることはためらわれた。実際に相手の体を抱いて楽しんできたのは自分のはずであり、殺生丸はあくまでそれを受け入れさせられている側なのであったが、同時に殺生丸がその自分の愛撫をみずから選んだ拷問のように受け止めて、奈落に対してもその道具とみなす以外の態度を一切示さぬというのが、奇妙にもこの状況に馴れてきた今になって、徐々に痛切に感じられるようになってきていた。
 さしもの奈落も、こうまで徹底的に自分の心というものが無視され、ただの責め苦の道具に過ぎないようにあつかわれるのは、いささか自尊心の傷つくことだと認めないわけにはゆかなかったのである。

(ふん)

 別に、馴れてほしいとも馴染んでほしいとも思うわけではない。ないが、それでもいくらかは肌をゆるした相手に対して向ける感情というものがあろうに・・・

 奈落は再び灯りのいくつかを吹き消した。今宵は上弦の月とて障子越しに入る光は頼りなく、わずかに残した鬼火ばかりが室を淡い墨を刷いたようなぼんやりした薄闇に包んでいた。





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