「殺生丸」
奈落はまた呼んだ。手さぐりでうなじを探りあて、そこから鎖骨をすべり、横たわったままのその背にじぶんの身体を押しつけて腕ごと裸の背中から抱き寄せる。警戒心の強い妖怪にとって、何であれ後ろからすぐ背に誰かがいるというのは、あまり落ち着かない状況だ。殺生丸も同じとみえて、抱きすくめられた体は不安そうに少し離れようと腕の中で身じろぎした。
そのしぐさを許さず、奈落はなおも全身で包み込むように華奢な体を抱き寄せ、汗ばんだ素肌の背にぴったりと自分の胸を押し付けた。何の香をたきこめているわけでもないのに、銀白色に流れるその髪からは不思議に涼やかな甘い香りがした。喘ぐようにかすかな息づかいが殺生丸の喉から聞こえてくる。
「殺生丸―――」
後ろから手を伸ばして、奈落は殺生丸のきめこまやかな絹のような白い胸もとを、残したところはないかというようにすみずみまで触れ、その心臓の上をなおも執拗に指で探り続けた。混じりけなしの純血種だけの持つ冷たく誇りたかいその心、あくまで自分を締め出して抱いても抱いても冷たく身をゆだねている閉ざされたその心に、ほんのわずかでも自分の入りこむ余地はないかと探すように。
「―――なぜ、何もせぬ」
ふいに低い、無感動な声が聞こえた。
「お辛いご様子ゆえ、今宵は」
「・・・なら、離れろ」
「もう少し、御身を抱いてこうしていたいのだ」
「役立たずが」
「―――別にかまいますまい」
「うるさい」
邪慳に言い捨てて、殺生丸は抱きしめている腕を振り払おうとしたが、奈落はいっそう力を強めて、身体を放すまいとした。
「奈落」
「そうとげとげしくお言いめさるな。別にそのことなくとも、側にいて悪いわけではなかろうに」
「・・・・・黙れ。何もできぬなら用はない、出て失せろ」
「お体にさわりますぞ。これ以上続けては」
殺生丸の体から鋭い怒りの気配が揺らぎたった。奈落ごときに思いやりめいた言葉を示されるのは、それが真実であるだけにいっそう、誇りたかい殺生丸にとっては許しがたい侮辱のように受け取れたらしかった。
「下衆が、差し出た物言いを」
「どうでも続けるおつもりか、その御身の心が作った城にたてこもって死ぬまで出てこぬおつもりか」
「推参な!」
かっとなって振り向いた金色の目と、血のように妖しい紅い目がぶつかりあった。
「少しばかり許しておれば付け上がって、下郎の分際でこの殺生丸に無礼な口を利くか」
「否とよ、殺生丸」
なだめるように奈落は言い継いだ。闇の中に雪のような白い髪にふちどられた殺生丸の蒼白いおもては怒りと緊張にはりつめて、興奮に頬は異様に紅潮し、やつれたおもざしの中でいっそう大きく見える黄金の瞳だけがきつく光って、そのおもてはたしかに息を呑むほど美しかった。
「わしが言いたいのは」
想いは言葉にできなかった。自分は殺生丸の完全無欠の妖怪のすがたにどうしようもなく憧れているのだということ、御身と肌を合わせ、体を重ね、己が腕の下に引きすえて蹂躙し尽くしてもなお、飽かぬ想いがあるのだということ。だが心はあやしく惑わすような深い金色のひとみに見つめられて思い乱れ、うまく言葉にまとめることはできなかった。
(ああ、なぜそのような目でわしを見る)
見つめるきつい表情の中で、そのくちびるだけが不思議になまめかしく柔媚で誘惑的だった。そのくちびるを奪い、己が唇でふさぎ、その柔らかさにふれ、その甘さをむさぼりたくて気が遠くなるような気がした。
「何だ」
「殺生丸―――」
相手の目の色に何か感じたに違いない。殺生丸がとっさに身を引こうとしたそのとき、
「奈落、何をする、なら―――・・・・!」
逃げる間も与えずいきなり頭をひきよせて、奈落は凶暴に唇を重ねた。ふれたところから全身がしびれるような、甘く柔らかで何ともいえぬ官能的な感触だった。差し込まれる舌のあまりな強引さに殺生丸が本能的に抗おうともがいた。
「奈、落、きさ――ま―――・・・・」
揉み合ったはずみに枕が飛び、銀色の頭は奪われたくちびるごと布団に手荒にぐいと押しつけられる。激しく乱れた銀髪が広がって、こぼれる黒髪とからみあった。
「は、なせッ」
「殺生丸、」
「奈落ッ」
「体ではなく心が欲しい、御身の心が」
顔をそむけようとするのを髪ごとおさえつけ、荒々しく噛みつくような口づけの合間に喘ぐように息を継ぎながら、奈落はささやいた。
「いくら体を重ねても御身の心にわしの入り込む隙はない。せめて一度くらい道具ではなく一人の相手として―――」
「奈落―――」
「こうして愛されてくれねば、わしも辛い―――」
「辛いだと」
首をふってかろうじて相手の唇を振り払った殺生丸が切れ切れの息のすき間に言い返した。
「すべて貴様が勝手に求めたことではないか」
「わしが勝手に御身を抱いたとそう思われるのか。ただわしがわし自身のためだけにそうしたと云われるのか」
「――――何が云いたい、奈落、貴様の云うことがわからぬ」
「ただそれだけのために、御身にこうして」
妖しく思いつめた紅い瞳で、相手は殺生丸の白い耳たぶに悩ましげにささやいた。殺生丸のうなじに血が上った。
「こうして一時の忘却を与えて差し上げたとお思いか。御身を愛してさしあげたとお思いか」
「恩恵だ、と言ったのは貴様のほうだ、奈落」
「恩恵か。いかにもそう申し上げた」
「なら、これ以上何を求める」
「さあ、いったい何を求めているのでありましょうな、もうわしにもわからぬ、ただ御身をここへとどめておきたいと思うほかは、何も」
「黙れ、とどまろうとどうしようと私のことはこの私が決める。貴様ごとき下種のさしずは受けぬ」
「それは重畳、このままわしに責め殺されて死のうと思いつめておられるならそれもよいが」
「・・・それが貴様と何のかかわりがある」
荒々しく臥所に押しつけられた姿勢のまま、殺生丸は言葉を返した。それは激越でもあり、冷たくもあるといった、一種独特の余人には真似のできぬ口調であった。殺生丸以外の者の口から出たならそれはただの怒りにまかせた言い返しにしか聞こえなかったろうが、殺生丸のくちびるから出ると、それははっきりと生まれながらに命令する側に立つものの持つ当然の口調に感じられた。誇りたかく冷ややかで、軽々しく人を寄せつけぬ響きを帯びていた。しかし同時にその声はひどく孤独で痛々しく、傷ついているようにも思われた。