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木の下隠り :其の三

「貴方のその空っぽの心に開いた隙間を埋められるのはあの小娘だけだ。しかもあの娘を手放して忘れ去る妖怪らしさもなく、娘を取り戻しにいこうという決断も気力もない。殺生丸、貴方はどうしたのです。いったい貴方は、わしの憧れ渡るあの最強を誇る大妖怪の末裔たるあの殺生丸は、どうしてしまったというのですかな」

「・・・・・・・」

 奈落は手を伸ばして、殺生丸の肩をつかみ、そっとそばに引き寄せようとしたが、殺生丸はほとんど神経症的に体を震わせてさっと身をひいた。奈落は肩をつかんだまま、慌てず落ち着いてゆっくりとその頬に顔を寄せていった。殺生丸は麻酔にかけられたようにじっとしていた。相手のどんな激しい動きも、一瞬で殺生丸を刺激しその場から飛び出させたに違いない。だが奈落はあくまでゆったりと静かな動きで、なおもその白い耳たぶに何かひくい声でささやき続け、殺生丸は近づいてくる顔から目を伏せて、迫ってくる体に押されるようにわずかずつ身を引き続けた。

 奈落の顔がその柔らかなくちびるにふれる寸前で、殺生丸はそっとおもてをそらした。奈落は失望したように動きを止めて小さくため息をつき、それからそのまま殺生丸の柔らかなのそのうぶげのある花びらのような白い頬にそっと自分の唇をふれ、そこからむきだした白いうなじへとそっとすべらせて、その首筋の付け根に優しく顔を埋めた。

「ご自分をいじめたい気持ちでいるなら、この奈落がお役にたちましょう。わしにとってはまたとない恩恵だが。ほら、鳥肌がたっている」

 自分がこんなに自虐的な心境であることを、どうして奈落は見抜いたろう。殺生丸は相手の体を押し返そうとしたが、腕はなぜだかこわばって持ちあがらなかった。

「・・・奈落」

 かすれた声で殺生丸はささやいた。帯がするりととけて、主人の意志なしでは奪えぬはずの妖鎧がはずされてかたわらの草むらに落ちる。

「奈落・・・・」

 答える代わりに相手が白い耳たぶを軽く噛んだので、殺生丸はいっそう硬直した。だがそれを避ける気にはなれなかった。奈落の指摘は恐ろしいくらい正鵠を射ていた。妖怪の冷静な心は自分の内心を完全に把握している。殺生丸は自分を責め、傷つけて痛めつけたいというほとんど不可解なまでに激しい欲求にかられていたのだった。奈落の愛撫が自分にとっておぞましく不快で、身震いするほどいやなものであることはわかっていた。まさにその理由で、殺生丸は今の今、相手にぞっとするような仕打ちを許し、その残酷ないたわりを受け入れようという気になっていたのだ。

「殺生丸―――」

 奈落の低いささやきが全身を少しずつしびれさせていく。かぎなれた瘴気とも異なる玄妙な匂いが鼻をつく。ふいに目の前が暗くなった。奈落の手が落ちた帯で自分の顔に目隠しをしたのだ。

ふさがれた目隠しをとりのけようと本能的にあがった手を、奈落のそれがそっとつかんで押し戻す。その仕種の奇怪なまでの優しさが殺生丸をおののかせた。

 

       * * *

 

 

 奈落は、あるいは自分に催眠術に似たものをかけたのであったかも知れぬ。そのあとに起こったすべてを思い出そうとしても、殺生丸にはその断片をしか思い出すことができなかった。

(思い出せなくて幸い)

 殺生丸は一人ごちた。その腕に残った鬱血のあとが、それが事実起こったことであったと告げていた。

 

 思いだせるのは幻惑するような媚薬めいた匂いが結界のうちを覆い尽くしていたことだ。奈落はそこへ自分の結界をはって、自分たち二人を包み込み、手を伸ばしてあたりをさぐってもそこに触れるのはわずかな空気の抵抗と、奈落の腕だけだった。その腕が自分の帯を解き、ひやりとした空気が胸元に滑り込むのを感じて初めて自分の衿元がはだけられ、着物の合わせ目が左右に広がっていることに気づいた。

 淫蕩と肉欲は殺生丸の白い肌にまだ何の刻印も押してはいなかったので、奈落は思う存分その冷たい絹で張られたような引き緊まった若い肢体をもてあそぶことができたに違いない。だがその仕打ちの気違いじみた淫蕩さの裏には、この妖怪の粋を集めたような美しい完璧な生き物へのやむことを知らぬ憧憬が確かにひそんでおり、それがどこか一点で殺生丸の奈落への憐れみを呼び、このような仕打ちを許す理由になっていたのだろう。

 決して手の届かぬ清浄な美に思い焦がれ、美の泉から飲むことを許されぬ身にとって、殺生丸はその象徴のようなものであったかもしれぬ。決して汚され、侵されることのない永遠の無垢の象徴だからこそ、今奈落が与えているような残忍きわまる愛撫もその心の壁を破ることはできないのだった。

(あ・・・・)

 かすれたあえぎが殺生丸ののどをついて洩れる。体を奪わせても肌を重ねても、そこだけは決してくちづけることを許さぬその唇に、奈落は布の一片をもぎとって残酷に押しこんだ。声もなく噛まされた布のはしから血がひとすじ流れて落ちる。

 目も見えず声も出せず、おさえこまれた手足の上に、ふいに生温かい香油のようなものがしたたりおちるのを感じて、殺生丸は身を震わせた。奈落の手―――冷酷で無慈悲な優しさで、奈落の手が雪をあざむく白い肌にその妖しい香りをただよわせる何かを塗りこんでゆく。耳たぶへ、首すじへ、胸の突起へ、手のひらへ、行為は容赦なく続けられ、しかも何か抵抗できぬような相手を受身にさせる何かをはらんでいた。

 奈落の手が足首にかかり、感じやすい足の裏に指がかかったとき、殺生丸は口に押し込まれた布をかろうじて吐き出し、身もだえして逃れようとした。奈落は手を止めなかった。

(やめろ、そこは・・・そこは、許さ――――――)

(すぐに慣れる――殺生丸さま―――わしに任せなされ・・・)

(・・・・よせ―――)

(せっかく布を噛ませて差し上げたのに、よろしいのかな)

 奈落はひくく笑った。





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