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木の下隠り :其の二

 

「何があったか存じませんが、私が会いたかったのは本物の沈着な大妖怪であるあなたで、今の取りみだした愚かな人間のようなあなたではない。ふん、つまらぬところに来合わせたものだ。今宵は立ち去るとしようか」

 冷たく言い捨てるとその場に立ちつくしたままの殺生丸をおいて、奈落はふいに小さな瘴気の渦を巻いて姿を消し、地上にはまた殺生丸一人の影が残った。

(取り乱した馬鹿な人間どものようだと?)

(――奈落め)

 一瞬カッと燃え上がった怒りの炎は、しかしいつもの激しいほむらとなって奈落へ向かって流れ込んではゆかなかった。まるでいつもは絶えることなく湧き出ている血の中に流れる炎の泉が枯れてしまったように、そうした激しい感情を維持するだけの力が今はわきあがってこないような感じがした。奈落の前で自分の感情を制御できなかったことも、その怒りを持続するだけの力が湧いてこないことも、殺生丸にはその理由がわかっていた。

(りん)

 すべてはあの小さな少女を人間の村へ置いてきてしまったことから始まっているのだ。りんのためだ、と思い決めたことなのに、なぜか殺生丸には、自分があの少女を見捨てて、人間の村へ置き去りにしてきたような気持ちが消えないのだった。

 めったに感じぬ不慣れなそうした思いは、殺生丸の心を傷つけ、その魂の最奥の最も柔らかく最も敏感なところに突き刺さって消えなかった。迷い、躊躇、後ろめたさ、自責の念。自分は一度も少女にどうしたいかすら聞いてやらなかった・・・・

(たしかに、おろかな人間のようだ)

(何をそう思い悩む、この私としたことが)

 殺生丸はそう自分を叱咤して、ひらり宙へと舞い上がった。白い毛皮はまとわりつく妖気の流れに姿を変え、激しい風が妖気の尾を旗のようにたなびかせた。風に舞い上がる髪に月に向かって飛び去る殺生丸の顔は蒼白く、その唇は厳しく引き結ばれていた。蒼い夜闇の中へ消えていく背中は、いつもと何も違っているようには見えなかったが。

 

       * * *

 

(・・・・)

 まとわりつくうっとうしい気配に、殺生丸は目を開いた。

「・・・奈落」

「まだ、こんなところでふさぎこんでおられる。どうもけしからん成り行きだな」

奈落は奇妙な目つきで木の根方によりかかった相手の姿を見おろしていた。

「どうも貴方様らしくもないことだ。そんなところで独りでわびしそうにぼんやりして」

 不興げに殺生丸は眉をひそめた。りんのことさえなければ、ここでこの相手を切り捨てているところだ。しかしそんなことはいつでもできることだった。今は誰にもかまわれたくなかったし、かまいたくなかった。少女のことと、それに対する今自分の心を占めている奇妙な気持ち――激しい自己嫌悪の気持ちにとらわれていて、それが今の殺生丸を少々人嫌いな、他人とかかずらうのをいやがるような、あえて言うならひどく妖怪らしからぬ様子に見せていたのだった。

「あの小娘を手放したのがそんなにおつらいとは不思議な」

「―――」

 殺生丸はなにも云わなかったが、その顔色からたしかに核心をついたのが奈落にはわかったに違いない。薄もやに煙る紫色の夕闇がもう周囲におりてきていた。殺生丸はその場を動かず、奈落も動こうとはしなかった。

「それで一人でふさいでおいでなのか。まるで人間のようなふるまいをして」

「うるさい」

 そっけなく殺生丸は云った。

「殺生丸さま」

「・・・・・・」

「―――殺生丸」

 初めて金色のひとみにチラと感情がゆれた。奈落ごときに呼び捨てにされるような無礼を許しておく殺生丸ではないはずだが、奈落の思惑に反して、相手はそれ以上挑発にのらなかった。

奈落はかぶっていた狒々の毛皮をすべり落としてそばへ足をすすめた。殺生丸の目が濃い睫毛を透かして妖しく光った。

「きさま、いったい何をしにきた。また四魂のかけらでも差し出そうというのか、下種が」

 無感動に殺生丸は云った。誰とも遊んでやる気分ではなかったし、相手を倒してやるというような高揚した気分でもなかった。目の前にいる相手に対してどんな感情も、怒りも憎しみも、嫌悪すら持てなかった。ただただ今の自分を疎ましく思う気持ちが全てを圧していた。

「・・・殺生丸」

 座り込んでいる相手の前に、奈落は膝をついた。殺生丸の目がいぶかしげに細まった。

「こちらへおいでなさい」

「・・・・・?」

「わしは無敵の大妖怪である貴方が好きだ。真の妖怪の冷徹さと冷ややかさをそなえた貴方が好きだ。そういう貴方をこそ捕らえ、我が身のうちの取り込み、その力を我が物としたい。人間の小娘ごときに振り回され、心をうつろにしているようなことはまったく殺生丸、貴方にはふさわしくない」

「・・・勝手なことを」

「勝手なことをと云わば云え、わしのあこがれ見上げてきた殺生丸とは今の貴方のような妖怪ではない。いや、今の貴方は本当の妖怪ですらない、半妖のわしにすら劣る、まるでいやしい下等な人間そのもののようだ」

 殺生丸の白い頬に血の色が動いた。だが奈落は容赦なく続けた。





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