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木の下隠り :其の十一

 

「殺生丸」

 言いかけた奈落の言葉を、荒々しく殺生丸はさえぎった。

「・・・さわるな」

「殺生――――」

「私にさわるな」

 そう言って殺生丸はふいと顔をそむけた。むき出しの白いうなじにはまだ奈落のつけた桜色の痕が残っていた。

「もういい、もう十分だ。これ以上私にふれるのは許さぬ」

 言い捨てて、殺生丸は目をつぶった。

「貴方が十分でも、わしには足りぬ」

「知ったことか。手を放せと言っている」

「断ると申し上げたら」

「無礼者!」

 あっという間もなく相手の腕を振り払った殺生丸の手が、奈落の顔にまともに平手打ちを浴びせた。白い体は同時につかまれた腕からさっと抜け出し、殺生丸は雪をあざむく白い肌に薄絹一枚を腰にまといつけたままの姿で、臥所をすべり出て奈落と向き合おうとしたが、一瞬早く奈落の触手が伸びてその体を今度こそ容赦なく締め上げるなり、主の体の下へと否応なく引きずり寄せた。白い腿に肉色の触手が食い込んで、殺生丸が激痛に呻いた。

 奈落の手がその腿の間へゆっくりと這わされる。殺生丸が縛めをふりほどこうとあらんかぎりの力をふりしぼってもがいた。

「なぜそう嫌がられる、ついさっきは、御身を抱かぬというのでこのわしを役立たずとののしったばかりではないか」

 残酷にその柔肌に痣をつけんばかり強くいたぶりながら、奈落はささやいた。

「どうしてもおいやか。このわしの責めは許しても、愛撫を受けるのはどうでも嫌というわけか」

 抑えてきた半妖奈落のもう一つの残忍な側面が、顔を出そうとしていた。殺生丸の激しい逆らい方は、今の奈落の仕打ちを自ら受容した罰ではなく、はっきりと奈落本人による愛撫と感じていることを示していた。それこそ奈落の望むところであった。たとえそれが凌辱にひとしいものと受け取られようと、たとえ一度でも殺生丸のこの冷たい肌に自らの手で烙印を押すことができるなら、ほかのことはどうでもよかった。

 どのみち殺生丸の拒絶は動かすことはできぬ。この手の届かぬ美しい相手へのどうしようもない憧れともどかしさが、奈落の心の中で次第に愛憎のないまざった思いに凝って変わってゆくのを、殺生丸は気づかぬであろうか。 

 奈落は身動きならぬ相手の美しい顔を引き寄せ、両手でそっと相手の冷たい頬をはさんで上向かせると、その力なく開いたくちびるにそっと自分のそれを合わせようとした。とそこで、彼は手をとめた。

「・・・・どうなされた。泣いておいでなのか」

「・・・・・・」

 殺生丸はもう何も云わなかった。濃いまつげの端に涙が浮かび、肌は冷たく血の気がひいて、その唇は無体な力づくの愛撫の予感に震えていた。

「・・・・・・やれやれ」

 どうやら勝ち目がないと知って、奈落はとうとうまた深い溜息をついて殺生丸の体をそっと肌から離すとその側に横たわった。どうにも、どうしようもなかった。責め苦としての行為を要求し続けながら、一方で自分の愛撫には口づけさえ拒む、この権高で残酷で略奪的で支配的な、だが並はずれて美しく繊細な傷つきやすい高貴な相手を前に、さしもの奈落もどうすることもできなかった。

(殺生丸)

 その冷たく閉じこもった心の壁を破る切り札を、奈落は持っていた。それをいえば、必ず殺生丸は今の自らひきこもった苦痛な肉体の檻をみずからこわして出てくるに違いない。だが・・・

(あんな取るに足りぬ小娘ふぜいの何をそうまで思い悩んで)

 殺生丸が、あの小さな人間の少女に抱いている気持ちがどのようなものであるか、はたからはまったくわからなかった。こうしてそばから離すだけのことに、この自分に身を投げ出すくらい苛立つほどあの少女に思い入れがあるというのは全く不可解というよりない。あの地味なヤマガラのひなのようなちっぽけな人間の小娘をどうして殺生丸がそうまで気にするのか、その理由というものは、奈落にはいくら考えても想像はつかなかった。

 だが、今の殺生丸を動かす切り札は確かにあの少女のこと以外にないと、これだけは奇妙な直感で奈落は知っていた。恋するものだけの持つあの不思議な洞察力で、奈落はそう確信していたのである。

(・・・・・・・此度は、どうやらここまでということか)

 着物をかき寄せて軽く身にまといつけながら奈落は思った。自分は待つのには慣れている。いちどきに相手の心をまでも手に入れようというのは無理があるというものだ。今はここまでに留め置くとしよう。暗い笑みがその頬をかすめた。

(今宵はここいらで解放して差し上げるといたしましょう。いずれまた、必ずこうしてお会いする機会もあろうほどに)

(のう、殺生丸さま)

(いずれは御身の心も、その白い身体も、このわしのものにしてみせる。この奈落一人のものに)

「殺生丸さま、御身のお気持ちはよくわかった」

 申し訳ばかりに巻きつけた着物姿のまま、奈落は立ち上がって室を出ようというように障子に手をかけざま声をかけた。殺生丸は気配に気づいたか、こちらに背を向けたままひじをついて体を起こしていた。先ほどの一揉みで疲れきったらしい、ひどくゆっくりとおぼつかない仕草だった。奈落は目を細めてその様子を見た。

 薄い衣を肩に、帯に手を伸ばしたとき、殺生丸は奈落が続けて言った一言にふいに息を吹き返したように、愕然とした表情で振り返った。

「・・・・今なんと云った」

「これへ来られてからもう四日はたつが、娘は生きておりましょうか、と申し上げた」

「なんだと―――?」

「これはまた、何をそういきなり血相変えて、どうかしましたかな」

「どういう意味だ。貴様、いったい何をした」

「これはしたり、わしは何もしてはおりませぬよ」

 奈落は奇妙な笑みを口元に漂わせながら続けた。

「ただ、御身がここで閉じこもってご自分を痛めつけておいでの間、あの娘も似たようなことをしていたようだと、最猛勝どもが教えてくれたので」

「・・・・・・・っ」

「やはり、貴方にはそういうきつい表情のほうがお似合いになる。わしの腕に抱かれてぐったりしておられるよりは、今のそのお顔のほうが何倍もお美しい」

「くだらぬ戯れ言でごまかすな、りんがどうした」

「さあ」

「奈落!」

「お気にならるるか、あの小娘のことが」

「云え、云わぬと」

「斬る、か。そんな気の乱れた息も絶え絶えのありさまで、このわしが斬れるかな。たった今まで御身と肌をあわせていたこのわしを」

 皆まで言わせず、妖毒は青ざめた燐光と化して殺生丸の鋭い爪の一撃が奈落の体をまっぷたつに引き裂いた!猛毒に切り裂かれた障子が溶けて消え、奈落の姿は廊下を蹴って地面におりたっている。

「殺生丸」

「・・・・奈落」

結構なことだ、と奈落は思った。あの人間の小娘のためなら、そんな必死の表情もできるのか。このわしに身をまかせていたとき、自分自身のためですらそんな顔はしなかったものを、それなのに、あんな小さいかよわい命のために、そんなに激怒できるというわけか。真の妖怪の誇りたかい貴方、非情で冷酷でみずからの妖力以外の何者をも信ぜぬ本物の妖怪であるはずの貴方が。

(殺生丸―――)

(いつか、必ず―――)

(半妖とさげすむこの奈落にも、ひとに憧れ恋する心はあると、殺生丸、御身が教えたのだ。今日は御身をこのまま行かせよう。だがいつか、わしにそれを教えた報いをお返しするときが来るだろう)

(いつか必ず)

(いつか、必ず――――)

 妖しい暗い笑みが再び奈落の頬をよぎった。

「小娘は御身を離れてから、まったく物も食わぬままだそうな。さよう、今日で四日か五日めにもなるか、あんな枯れ枝同然の子供ゆえ、もう一日も食わずにおれば違いなく餓死となり果て・・・」





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