小さなりんを人間たちの連れ去るままに去らせてからまだほんの五日ほどしかたっていなかった。殺生丸は村を見おろす高台のはしから、はるか下にごたごたと固まっている粗末な藁葺き屋根をながめていた。
あの小屋の中のどこかにりんもいるはずである。妖怪の鋭い嗅覚に、人間の大人や子供や男女や年寄りなどの臭い、牛馬や犬鶏や稲わらの匂い、鉄の鎌や道具の鋭い匂い、青草や食べ物、いろりの燻されたような匂いなどに混じって、かすかな野草の花のような少女の香りがした。
(いやっ、行きたくない、殺生丸さま、殺生丸さまぁーっ)
僧の一人に横抱きに抱えあげられながら、必死に自分の名を呼んでいた少女の声がよみがえる。
(りん)
少女がどんなに泣き叫ぼうと助けを求めようと、妖怪と人間の差は埋められるものではなかった。林の中で独り立ち尽くしたまま、りんの絶叫に背を向けて、人間たちが歩み去る足音を聞いていたときの突き刺さるような想いは、数日過ぎても薄れるどころか、いっそうひどく耐えがたくなっていた。
(ばかげている)
まったくの偶然からりんを見つけた人間たちが、妖怪などと一緒に行くな、人間は人間と暮らすのが幸福なのだから、と言い聞かせているのを、殺生丸は物陰から黙って聞いていたのだった。どうして自分に止められる?りんは人間なのだ。人間などという下等な連中にはいつも嫌悪しか感じなかったが、今度ばかりは彼らが正しいと殺生丸は思った。りんを人間どもの中に戻す絶好の機会だった。あるべき姿に返すのがりんのためだろう。魑魅魍魎の渦巻く険しい道を、妖怪といつ終わるとも知れぬ戦いの旅などしているよりは。
(りん)
少女の悲鳴が耳について離れなかった。悲鳴はただ一つのことを、ただ一人の保護者を求めて泣いていた。殺生丸さま、殺生丸さま、殺生丸さま!
握りしめた手のひらに食い込んだ爪から血がにじみ出た。それは生粋の妖怪である殺生丸にとってほとんど初めてといってもいい経験だった。今、殺生丸は自分の望みからではなく、少女にとって何が幸福か、という見方から物を見、考え、行動したのだった。それがたとえ今のりんの心に沿わなくても、いずれこうすることが正しかったと思う日が来るはずだ。そう彼は漠然とながら信じたのだった。
それはあまり妖怪らしからぬ考え、純粋の妖怪にとってはむしろ不自然とさえいえる考え方だった。そうやって先を読み、大所高所から将来のことを考え、誰か他人を思いやるというのは、人間が空を飛ぶのが困難であるのと同様に、難しいことだった。たとえば少数の才能に恵まれた人間だけが法力を身につけて、成し難いことを成し得るように、妖怪の中でもまた数少ないその資質をそなえたものだけが、幸運な機会を捕らえてこうした考え方を見につけ、他の妖怪から一歩抜きんでることが可能なのであったが、法力とやらを身につける修行が厳しく過酷なものであるように、妖怪にとってもまた、今殺生丸が経験しているような想いは辛く苦しいものであるに違いなかった。
(りん)
人間たちは、少女を外へ出すつもりはないようだった。泣いて逃げたがる小さな女の子を奇妙な子供と思いはしても、あわれんで村に置きこそすれ、邪慳に妖怪のもとへ追い返したりするような気振りもなさそうに見える。別にそれを心配して来たわけではなかったが、小さなりんが納屋のすみに膝をかかえて泣いているのが、奇妙なくらいくっきりと殺生丸の心に浮かぶのだった。
(きっと、きっと迎えに来てくれるもん。殺生丸さまは、きっと、きっと)
(―――りん)
何かを振り切るように、殺生丸は荒っぽく長い袂をひるがえして村に背を向けて歩き出した。いくら敏感な殺生丸の鼻でも少女の涙の匂いまではここへ届くはずはなかったのだが。
荒野には巨大な月がかかっていた。晩秋の風は荒々しく銀白色の髪をなびかせ、宙へ巻き上げた。絹のたもとがハタハタと鳴る。枯れた草原に丈短い草が倒れ伏し、名残のススキがそちこちに揺れていた。地面に伸びる濃い月影のわきに、突然現われたもう一つの長い黒い影があった。
「お一人ですかな、殺生丸さま」
「・・・・・・・」
「お忘れですか、この私のことを」
答えるのもわずらわしいと言いたげに、殺生丸は顔をそむけて歩み続けた。それから起こったことは一瞬のうちだった。
奈落が大胆にも殺生丸の肩に手を伸ばしてふれた刹那、振り返りざま殺生丸のたもとが目にも留まらぬ迅さでひるがえり、青く光る爪がヒュッと音をたててたった今奈落のいた背後を空気もろとも切り裂いた。奈落の体は飛んで後ろに下がっている。その身にまとった妖しい狒々の皮がひとすじ切り裂かれて垂れた。殺生丸の純白の毛皮は針のように逆立ち、髪は怒りの妖気に沸き立ち揺れていた。
「・・・・・・・・失せろ」
低い声で殺生丸は云った。奈落は少し首をかしげただけでその場を動かぬ。殺生丸はまた云った。
「私の前から消えうせろと云っているのだ、このうすぎたない寄せ集めの半端者の半妖の下種が!」
「―――とんでもなく荒れておられる」
冷ややかな口調で、奈落はつぶやいた。
「何かありましたか。本物の妖怪ともあろうあなたが、そんなふうに冷静さをうしなって荒れているのはあなたらしくもない、ちと見苦しいが」
「・・・・・・・・」
無言のまま、殺生丸の右手が剣のつかにかかった。それに奈落はかるく一瞥をくれたが、別段それを抜くだろうとも思っていないような顔色だった。