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風の音にぞ:  其の七

 考えるより先に言葉が口から出ていた。殺生丸は言った。

「そのようなこと、仰せには及びませぬ。あれはすべて敵を倒すための謀りごと、この身もすべて承知の上で身をまかせたものを今さら」
「承知の上、と申すか。承知の上、と」
「もとより」

 ますます怪訝そうなおももちで、殺生丸は言い継いだ。

「私は少しも気にしてはおりませぬ。あんなものは取るに足りぬ一夜の戯れごと、何もかも心得てしたことゆえ、気にもなりませぬ。あの下郎どもも残らず殺し尽くして気にかかることもなく、身の傷も癒えて」

「たしかに見かけの傷は癒えたであろうよ、殺生丸。見かけはな」
「・・・・」

 父の言いたいことがよくわからなくなって、殺生丸はその顔を見上げた。

「何を言いたいかわからぬという顔つきじゃな。そうであろうな、無理もない」
「・・・・父上」
「のう、殺生丸。そなたくらいの年の頃にはな。自分で自分の心の強さを過信してずいぶん無茶をすることがあるものよ。己れの心の強さを信じ、自分はそれほどの弱くはない、この程度の重荷になら耐えられると思いこんで、とんでもない無謀なことへも飛びこんで行ってしまう。そして自分が傷ついていることにも、耐えられないということにすら気づかず、どんどん深みにはまっていってしまう・・・聞くがいい、殺生丸。そなた、本当はあの謀略で下郎どもに嬲られるのが心の底から耐え難かったのではないか?たくらみと知って引き受けたこととはいえ、あの下衆どもに体を許したのが、本当はやりきれないほど苦痛だったのではないか?今もそれを引きずって、それゆえ苦しんでいるのではないか?いや、待て、言いたいのはわかるが、まあ聞け」

父大将はかろく手をあげて何か言おうとする息子をさえぎった。

「たしかにそなたの分別では、あれはただの計略とわきまえて敢えてやったこと、それゆえ自分は傷つかぬ、傷ついておらぬと思っているのであろう。だがな、殺生丸。そなたは傷ついている。確かに傷ついているのだ。ただそれに自分の心が気がついておらぬだけのことなのだと父は思う」
「・・・・・・・・」
「あれから一度も父の寝所へ来ようとはせなんだな。わかっている。どうしても来る気にならなんだのであろう。どうしてだと思う」
「・・・・・・・・・」
「そなたのわしに対する心が変わったとは毛頭思っておらぬ。そんなことは考えられぬ。そなたもそう思っていたであろうが、しかしどうしても父の元に来る気にはなれなかった。そうなのじゃ。そなたは男と肌を合わせるのが嫌だった。考えるのも苦痛だったので思い出すことすら心が拒んだ、だが本当はわかっている。そなたの体はあの仕打ちを心の底からいやがり、拒絶しておったのよ。だからこそ、この父に身を任せることが恐ろしかった。あの記憶を呼びさますような、男に肌にふれられること自体が苦痛で苦痛でたまらなかったのよ」

 殺生丸は茫然と聞きいっていた。

「しかしそなたの意思では、そんなことは認められないことだった。あれはすべて自分でわかっていて引き受けたこと、いまさら嫌のどうのと感じることなど、そなたの誇りがゆるさなかった。それゆえそなたはその想いを心の奥におしこめて、自分でも知らぬうちに自分の心から隠してしまったのであろう」
「・・・・・・・・」
「だが体は覚えていた。そなたは何ごとも変わっておらぬと思って我が元へ来たかったが、押し隠された心と体はどうしてもあの記憶のために男に触れられるのが嫌だった。どうして体が思うように従わぬのかそなたにはわからず、困惑し、苛立ったが、どうしても何故かわからなかった。心では父を愛していると思い、父の寝所に来たいと思いながら、しかも側まで来ると逃げ出したくなる。二つの感情の間で引き裂かれ、自分で自分の心がわからず、懊悩し、苦しんだ」
「・・・・・・・・なぜ、それを・・・・・・」
「父に従わず、閨を拒む自分を責め、心と体がままならぬ自分にいらだち、焦り、しかもどうしてもその原因がわからず、惑乱し、迷い、悩み・・・・」
「父上・・・」
「側に行けず、父に見捨てられるのではないかと不安になり、自分はこわがってなぞおらぬと無理に自分に信じ込ませ、父から抱いてよこせば元に戻るのではないかと期待して、無謀な色ごとをしかけて見せたりもした。本当は足が震えるほど怖かったのではないか? 腕に鳥肌がたっていたぞ」
「・・・・・・・」
「わしが応じなかったので、醜態をさらしたと感じてますます追い詰められ、しかも八方塞がりで逃げ場もなく、ますますどうしてよいかわからなかった。ただ、つらく耐え難くて、しかもなにが問題なのかすらわからず、父に打ち明けることすらできなかった。のう、殺生丸、違うか」
「父上・・・・」
「父が浅はかだった。そなたをあのような強引な謀りごとに使うなど、たとえそなたから言い出そうと許すべきではなかったのだ。たとえそれでいったんは妖忍どもを取り逃がそうと、ほかにいくらも方法はあったものを、絶好の機会とばかり功を焦り、一族のためと言い訳をつけ、若いそなたの犠牲を深く考えもせずに受け入れて、何より大事なそなたの心を傷つけた」

 父がそっと衣の上から自分を抱きしめた。

「殺生丸、許せ。父のせいじゃ。わしが愚かであった」
「・・・父上」

 抱きしめられた腕が悲しいくらい温かかった。なんと長いことこの腕の温かさに離れていたことかと殺生丸は思った。同時に思い出される、あの妖忍の下郎たちにもてあそばれたときの耐えがたく長い時を歯をくいしばって耐えたこと、あの例えようもなく苦痛な縛めの記憶、肌をさわられたときの嫌悪、何もかもわかっていると思いながらもなお肌身を許したときのあの全身が総毛だつような感じ・・・忘れ難くいまわしい、肌を這いまわる男たちの手のすべてが、突然ふきこぼれるようにぞっとする思いで思い出された。

(自分は嫌だった・・・本当に耐えがたく苦痛だったのだ)

 しかし自分から言い出したことに否やはいえなかった。わかっていてされることゆえ、何も心配することはない、ただ少し目先の変わった色事の試しくらいにしか感じぬであろうと、そう自分では思っていた。事実、その最中ですら己れは何も感じなかったのだ。だが、本当は・・・





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