疲れ果てた体をひきずって部屋へと戻ってきたのはもう夜の十時、亥の刻も過ぎた頃であった。いつものあのかろやかな動きがうそのように、殺生丸はよろめき、ふらつきながら御簾を押しのけて奥へ入ると、あちこちに引っかかって裂けた袂の着物もそのままにその場へ倒れるように横になった。
(・・・)
体を投げ出して目を閉じたまま、殺生丸は外の澄んだ虫の音を聞くともなしに聞いていた。ひどい疲労感が全身をおおい、頭を起こす力もなかった。昼間の自分の行為を思い出すと、嫌悪感で身もすくむ思いであった。昼日中からあんな浅ましい振舞いをして、父の目に一体どう映っただろう。考えると情けなさと恥かしさで涙すら出なかった。しかもろくな言い訳もできず、その場に父を置いて、でたらめに飛び出してきてしまったのだ。どんなにか驚き、あきれ、はしたない奴よと思われたに違いない。もういい、何もかもどうにでもなれ・・・
(わずらわしい)
思うようにならぬ自分の心も体も、父も、何もかもすべてがわずらわしく鬱陶しかった。このまま自分など消えてなくなってしまえばいいと思った。
周囲の何もかもに心を閉ざしていたので、御簾の向こうに人影が動くまで、殺生丸は父の訪れに気づかなかった。
「・・誰だ!」
ヒステリックな誰何に、静かな父の声が応えた。
「・・・殺生丸?どうしやった」
「あ・・・父上」
「夕餉の席にもあらわれぬゆえ、いかがしたかと見に来たが」
御簾の向こうに影がうつった。父の声はなおも優しく言った。殺生丸は言葉につまった。
「伏せっていたのか。起こしてしもうたかな」
「・・・・・いえ、そのような・・・・・」
「だいぶん疲れておるようじゃな。かまわぬ、よく休めよ」
「・・・・・」
そのまま入ってくる素振りも見せず、御簾の向こうできびすを返して父の気配が遠ざかった。殺生丸はあやうく叫びたくなるのをこらえた。
(・・・父上!)
まるで父に見捨てられたような気持ちであった。追いすがって行かないでと叫びたかったが、一方で父が御簾の中に入ってこなかったことで、全身の力が抜けるほどにほっとする思いでもあった。
どうしてこんなに相矛盾する思いをいだくのか、自分でもわからなかった。みじめな気分で、殺生丸はまた弱々しく床の上に倒れこんだ。自分で自分の心の動きがさっぱりわからず、どうしようもなく、何をどう考えてよいのかもわからなかった。父を拒みつづけていることへの自責の念や、呆れたり嫌われてしまったのではないかという不安、あせっても父の元へゆけぬ自分自身への苛立ちと焦慮、そうした思いが混じり合って、殺生丸の心を責めさいなんだ。
(父上)
途方に暮れて、疲れ果てたように彼はつぶやいた。その美しい横顔はいつになく心細く頼りなげに見えた。
* * * *
一睡もできなかったように思ったが、実際には疲れてねむってしまったようだった。もう日は高くなっていたが、起き上がろうとしても頭があがらなかった。殺生丸はかろうじて肩から体を引きずり起こしたが、頭は鉛のように重く、気分はひどく虚ろであった。髪も衣服も乱れたままで、顔も目も腫れて見られたざまではないと思ったが、着替える気力も湯を浴びようと考える気力さえなかった。ふしどの上に茫然と座り込んでいるだけの時間がどれだか流れたか、殺生丸にはわからなかった。このまま死んでしまいたい、と彼は思った。
だしぬけに肩に誰かの手がふれたので、殺生丸は文字通り息が止まりそうになった。悲鳴をあげてふりむくと、父が首をかしげ、片ひざついてこちらを見ていた。
「すまぬ、驚かしたようだな・・・何度か声をかけたのだが、返事がなかったのでつい」
心臓がどきどきと脈打って息が苦しかった。蒼ざめて口もきけぬ息子の様子をみてとって、父大将はおだやかに言った。
「そう固くならんでもよい。のう、そなたに何があったか、父にはわかるつもりじゃ。少し話をしようと思うのだが、かまわぬかな」
「・・・・・・・・」
体が萎えてしまって、力が入らなかった。その場に倒れこんでしまいたいのを、殺生丸は必死に支えようとした。と、そこでまた父の優しい手が体にかかるのを感じた。
「つらければ横になっているがよい。そのほうが話もしやすいゆえ」
転がっていた枕を柔らかな髪の下にそっと差し入れて、横にさせた上に自分の脱いだ絹をかけてやりながら、父は続けた。
「のう、殺生丸。此度の戦さで、そなたにずいぶんと無理をさせたこと、許せよ」
何を言っているのだろうと殺生丸は不思議に思った。そんなことは少しも問題ではないのに・・
「いかに計略とはいえ、そなたの身を傷つけたこと、まことにゆゆしく心苦しいことであった」
「・・・父上」