父は一人前栽に面した奥の部屋にすわり、午後のひとときを脇息によって書見をしているようであった。晩夏の日差しが局の野草に濃い影をおとしていた。
(ばかげている。何をこわがっているのだ)
自分の不安をよしないことと無理やり片付けて、殺生丸はつとその室の側へよった。父が顔をあげた。
「殺生丸か、どうした。入るがよい」
「あ、はい」
答えたものの、足を踏み入れようとして一瞬彼はためらった。ためらう自分にまたたまらない苛立ちを覚えて、殺生丸は荒々しく御簾を押しのけて中に入り、かたわらの円座の上へ腰をおろした。父はのんびりと言った。
「外はどうであった。もう秋よと思うていたが、まだまだこう残暑が続くとうんざりじゃな」「はい・・」
「有りの実が届いておるぞ、一つどうじゃ」
「いえ・・・」
「南蛮の菓子もある。四川の茶は」
「いえ・・」
「湯も書見もよいが、父も少し体を動かさぬとどうにかなりそうじゃ。一つ竜でも狩りに行くかな」
「は・・・」
「付き合うか」
「・・・いえ」
「湯は気に入ったか。少しくつろいでおるかの」
「・・・はい・・・」
「・・・殺生丸」
さすがに少しいぶかしそうな表情になって、父大将はうつむいたままの息子の顔をのぞきこんだ。
「元気がないの。ここに飽いたか。館へ戻りたいか」
「いえ、あの、そういうわけでは・・・」
「戻りたければ戻ってもよいぞ。父はべつだんそなたを退屈しのぎの伽にしようとて呼んだわけではない。そなたの疲れを癒すのが目的じゃ、飽きたのなら無理にここにおらずともよいが」
「・・・・・・・」
父の言葉がぐさりと胸に突き刺さるように感じられた。そのつもりがなくとも、今の殺生丸にはまるで突き放されて勝手にしろといわれたような気がしたのである。殺生丸の顔色からその受け止め方を敏感に察して、父がおどろいたように言葉を継いだ。
「これ、なんという顔をする、だれも帰れなどとは言っておらぬ、ここにいたければいるがよい。父もそのほうがうれしいに決まっておる」
「・・・・・・・」
殺生丸は不覚にも涙がこぼれそうになったのを隠そうと、顔を庭のほうへむけていっそう深くうつむいた。父のこんな小さな言葉に落ち込んだり気がたかぶったりすることも、自分で自分が解せなかった。父は注意深くその息子の落ち着かない様子を見ていた。心配そうな表情ではあったが、その眼にはどこか予想していたような色があった。
(こんなことではないかと少し恐れていたのだが)
「殺生丸、のう、少し食べたらどうじゃ。朝餉もとっておらぬではないか。おとといもいくらも口にせなんだし、昨日口にしていたのは削り氷だけであろうが。あまりのどを通らぬか?」
「あの・・・いえ、はい、その、食べろと仰せなら、少しは・・」
気づかれてなどおらぬと思っていたのだ。見ていないようで父がよく観察していると知って、いっそうすくんだようにつぶやいた息子へ、父は困ったように、
「これよ、無理に食べよなどと申しておるのではない、加減がすぐれぬのかと気にしておるのだ。室へ戻って横になったほうがよいのでは・・・」
さすがに眉を寄せて脇息から体を起こした父大将は、突然相手が体を起こして自分の肩にしがみついたので驚いて手にした書を落として、相手の体を支えた。
「・・・殺生丸。どうした」
殺生丸は声もたてずに父の首筋に顔を埋め、その胸にすがりついた。絹糸のたばのような雪白の髪がふさふさとゆれる。息子はそのまま唇をすべらせて父のそれに触れあわせて舌先で強引に割り込み、手を父のふところに差し入れて無理やりにその衿をくつろげようとした。その誘い方はひどく強引で痛々しく父の目に映った。
「・・・父上?」
父はいやがりもしなかったが、強いて相手をしようともしなかった。父が自分の誘いに応じずそっと体を抱いているだけなのを感じ取って、殺生丸は不安そうに手をとめて少し体を起こした。
「父上」
「・・・殺生丸」
そっと手を伸ばして乱れた髪をなでつけてやりながら、父大将は優しく言った。
「その気がないのに無理をすることはないぞ」
「・・・・・・・・・」
自分は真っ赤になったと殺生丸は思ったが、実際にはいくぶん血の気がひいて蒼ざめたくらいだった。父は慎重に言葉を選んで続けた。
「ここへ来てからそなたが応じてくれぬので機嫌を損ねたと案じていたのか?この父にそのような心配は無用じゃ」
「・・・・・・」
「わしは少しも気にならぬ。そなたが来ようと来るまいと、わしはいつでもそなたを愛しておる」
そうではないと殺生丸は言いたかった。そうではない、そんなことではない、私が言いたいのはそんなことではなく、そういうことではなく・・・・
「そんな自分を殺してまで無理やり体を与えようとするような痛ましいそなたは見るに忍びぬ。そなたの気がのらないのなら乗らないで、わしは別にかまわぬのじゃ」
「・・・・・そうではありませぬ、そうでは・・・」
ようやっと殺生丸は声を絞り出した。
「そんなことではありませぬ、私は・・・・私は・・・・」
うまく言葉にできなかった。自分は気がのらないなどとはまったく思っていないのだと言いたかった。父を愛しているし、自分もあなたの側にいたいのだといいたかった。ただ、自分の体がその心を裏切り、思うようにならないだけなのだと、だからあなたのほうから私を求めてくれれば、そうしてこんな奇妙な戸惑いなど忘れさせてくれれば、そうすればすべてうまく行くのではないかと思ったのに、だから私は・・・それなのに・・・・それなのに・・・・
(どうすればいい、もう一体どうすればいいのか)
父大将の情理をつくしたやさしい言葉も、今は冷たい拒絶としか受け取れなかった。私にその気がないなどといって、父上は私を拒んでいる。こんなにあなたのそばにいたいと思っているのに、そうしてほしいと求めているのに、あなたは私を拒んで、突き放して、しかもそれが私のせいだなどと言うのなら、私はもう、私は、もう・・・
「殺生丸、」
父が何かいいかけたが、殺生丸はいきなりその体を突きのけ、身をひるがえして外へと飛び出した。
「殺生丸! 待たぬか、どこへ行く、殺生丸!」
呼ぶ声も耳に入らず、飛び出していってしまった息子を追って、父大将は空中へふわりと舞い上がった。白い髪と毛皮が行く当ても定めず滅茶苦茶に飛び駆けていくのが下方に見えた。あの調子ではあまり遠くへは行けまいと彼は思った。なまじ追いかけて連れ戻そうとすれば、いっそう悩乱して恐慌状態に追いこむことにもなりかねない。
(そんなことではないかと案じてここへ連れてきたのだが、やはり当たったな。早めに皆の目から引き離したのは正解だった)
はるか高みに浮かびつつ我が子の様子を目で追いながら、犬の大将は気がかりそうにつぶやいた。