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風の音にぞ:  其の四

「・・・・・・・・?」
 ぼんやりと殺生丸は目を開けて、天井を見上げた。誰かが涼しい風を送ってくれているのが感じられた。

(どうしたのだろう。室に戻ったのか)

 濡れた髪はほとんど乾いて、もつれた手で結わえたはずの帯はきれいに結びなおされていた。殺生丸は風の来るほうへ顔を向けた。

片手に団扇でこちらへ風を送りながら、父がゆったりと寝ころんでいた。のどかに居眠ってでもいるのか、かすかな息づかいが聞こえたが、殺生丸が緊張した目を向けても父は目を閉じたままであった。

(ずっとあおいでいて下さったのか)

 湯あたりして気分が悪くなった自分を、探して運んできてくれたのに違いない。

(・・・父上も、お疲れなのに)

 せめて膝枕なりとすべきでは、と思ったが、まだ気分はすぐれず、頭が重かった。申し訳ないと思いながら、父のそばへ近づくことができなかった。

「父上・・・・父上」

 小さく口の中でつぶやきかけただけでは、父の耳に届こうはずもない。殺生丸は横になったまま、また声を出そうと試みた。今度は先ほどよりいくらか大きな声が出た。

「・・・父上」

「ん―――おお、なんじゃ、目が覚めたのか」

 あおぐ手を止め、恥ずかしげもなく大欠伸をしながら、父は気楽に起き上がって伸びをした。

「どうじゃ、気分は」

 こういうとき相手に置かれた状況を思い出させて、きまりの悪い思いをさせるようなひとではない。父はいかにも無造作に言ったが、息子のほうはそれどころではなかった。

「大事ありませぬ。もう部屋へ戻れますゆえ」

 どうしてここへとも、いつ見つけて、とも訊かなかった。ただ一刻も早く父の前を離れたい一心で殺生丸は口早にそう言って、無理に体を起こしかけ、またひどくふらついて床に手をついた。生乾きの髪が柔らかく乱れて顔にかかった。

「これ、何をしておる、殺生丸、しっかりいたせ、ここはそなたの自分の部屋ぞ」

 父が案じ顔に言う。息子は当惑げに顔を上げた。

蜀江に総角結の御簾、黒漆に葵紗を張った紙燭の台、雲鳥の金蒔絵を施した文台に硯箱、異国の光景を明綴れに織り出した華麗な几帳など、いかにも若々しくきらびやかに贅を尽くした華やかな調度は、たしかに見慣れた自分の部屋だった。殺生丸は頭をはっきりさせようと首をふり、それでまためまいがしたので、くらくらして片手で目元をおさえた。

父は心配そうではあったが、敢えて手を伸ばしてこようとはしなかった。

「気分がすぐれぬか。手を貸すか」

「いえ、少しめまいがしたのみにて」

 ふらつく手元がすべって白い上体がよろめいて肘をつきかかり、見かねた父が腰を浮かせたが、殺生丸は何とか自分を保って、辛うじてまた伏しどに横になった。

「殺生丸」

「ほんの湯あたりゆえ、少し休めば」

「・・・そうか」

 聡明な父はそれ以上何も訊かず、何も言わなかった。先の湯殿での不審な挙措も、こうしてここへ連れ戻ってきたにもかかわらず、そばに近づかれたくないそぶりを見せることについても、父は特に指摘も逆らいもせず、ごく自然のようにふるまっていた。

「たいしたことはないゆえ、父上、どうか」

 まさか出て行って欲しい、とまでは言えず、伏し目がちに言う殺生丸の声が口の中で途切れた。父はその顔色を読み取ったのか、優しく言った。

「では父はこれで引き取るとするかの。こなたも少し疲れておるようじゃ。あとで水菓子など持たせようぞ」

「どうぞ、おかまい遊ばさず・・・」

「ばかに他人行儀な口をききおって、生真面目だの」

 父は笑みを含んだが、殺生丸はそっと親指を噛んでいっそう目を伏せた。

「いえ・・・はしたないさまを見せたので」

 聞こえないような小さな声で彼はつぶやいた。自分自身にさえそれは言い訳がましく聞こえたが、父は何も問いつめることなく、またかろく笑っただけで、静かに御簾を割って出て行ってしまった。           

(父上)

 何もきかぬ父の思いやりが有難かった。同時にその優しい父に感謝の一言も述べず、せきたてて室から追い出してしまったことが、ひどく後ろめたく思われた。

 父の残していった団扇に手を伸ばして引き寄せ、殺生丸は目を閉じてその慣れた父の匂いを吸いこんだ。

(父上)

 われと我が心を持て扱いかねて、どうしてよいかわからぬまま、団扇に顔をおしつけて殺生丸は一人茫然としていた。












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