「すりゃお館さまは御曹司を連れて湯におもむかれるとか。玉造あたりかの」
「此度の殊勲第一は殺生丸さまゆえ、少し骨休めを兼ねてお連れになろうおつもりであろ」
「はは、そりゃ建前よ、お館さまがご一緒におそばにおいておきたいだけであろうが」
「共に来いと言われたときの御曹司のお気の進まぬ顔といってはなかったな」
「ハハハ、さもあろうこと」
「お若い殺生丸さまに湯治と父君のお話し相手だけではちとご退屈じゃな、無理もない、無理もない」
「なにせい、お館さまはなめるようにかわいがっておいでだからのう。一時たりともお手元から離すのはおいやじゃな。まあ、しばしお二人きり水入らずでおくつろぎ遊ばすのもよかろうて」
「しかし何も湯治に連れていかんでもいいものを。お若い御曹司なら褒美に美女の一人も欲しいであろうに、あの何にでもよく気のつく賢いお館さまが珍しいことじゃ」
「はっは、いやいや、お館さまはまだまだ殺生丸さまのことをほんの子供と思うておいでなのよ。女子なぞ早すぎるとな」
「いやなかなか、さもありなん。ま、御曹司もそうしたことには淡白なご気性と見ゆる、別に父君にねだるご様子もなし、考えてみればお館さまもそうしたことには溺れぬたちよな」
「若君はおなごなどより強くならるるほうに夢中じゃよ。そういうところもお館さまにはかわゆうてならぬのじゃろう」
「まこと」
「もうそろそろお発ちであろうが」
「それや、後より早生の有りの実などお届けしようぞ」
「もう夏も終わりじゃのう」
「そうさのう・・・」
*
* * *
岩陰にひっそりともたれるようにして、殺生丸は体を湯に沈めた。肌についた妖忍どもの血の匂いはなかなか消えなかった。銀色の髪を指ですいて、長い髪のすそが湯の中にゆらゆらと広がるのを見守る。水面に映る顔色はあまり元気がなかった。ここ数日というもの、殺生丸は自分の奇妙な心の動きにとまどって悩みぬいていたのであった。
ここへ来てから、まだ一度も父の枕元へ忍んでいってはいなかった。父はさぞ不審に思っていることだろう。父を嫌っているわけでは決してなかったが、しかし、どうしてもその気になれなかった。殺生丸自身にも己の心が不可解であった。あれほど愛している父の閨へ足が向かぬのは、いったいどうしたわけだろうか。
殺生丸は湯をすくって顔を洗い、目元をこすった。なぜか、そのことを考えると涙がにじんでくるのだった。別に悲しくもつらくもないのになぜなのか。自分の働きで妖忍どもは一掃され、一族にはさすが御曹司よともてはやされ、父の誉め言葉も受けて、何も心にかかることもないまま、ここへこうして休みにやってきたというのに。
(父上)
なんとしても行く気にはなれなかった。夕べは寝所のすぐ外まで行ったのだが、そこで全身が震えだすような感じがして、足がすくんで動かなくなってしまったのだった。すぐそこまで来ていながら、突然几帳の向こうで回れ右して逃げるように立ち去ってしまった息子を、父はどのように見ていただろうか。
(ばかげている)
(!)
ふいに漂う香りに、殺生丸はどきりとして近くの大岩のかげにすべりこみ、何かから隠そうとするように、あごまで湯の中に沈みこんて息を殺した。
(父上)
別に不審がることもない。広い岩場の間に湧く天然の湯である。ごつごつした岩の重なりあった向こうから、かすかな水音と父の匂いがした。
(・・・・)
自分はこんなところで何をすくんでいるのだろう。殺生丸はそう思ったが、体は硬直したように動かせなかった。自分が父の存在に気づいたように、父もまた自分がここにいることに気づいているはずである。今しも父がこちらに来るよう声をかけ――または父のほうからここへあらわれるのではないかという気がして、殺生丸は息をひそめて次の瞬間を待った。温かな湯にひたっているのに、指の先が緊張のあまりしびれて冷たくなった。
父は現れなかった。向こうで湯につかっている気配、長い髪を洗うらしい様子などが手に取るようにわかる。岩かげにいっそう身を隠して殺生丸は凍りついたまま、その気配に耳を澄ましていた。
(父上・・・・だめだ、声が出ぬ・・・)
(私は、いったい、何をして)
こんな岩陰に身を隠して息をころしている理由などはまったくなかった。父は自分のほうから声をかけてくるのを期待して待っているのではなかろうか。だのに自分はなぜこんなふうに物陰でかたくなっているのだろう。
(父上)
あらんかぎりの力を振り絞って殺生丸は体を動かし、岩のすき間からそっとのぞいた。
湯けむりの向こうに、洗い上げたばかりの輝く銀白色の髪を首を振って軽く背に流す父の姿が見えた。口に組紐をくわえ、手づから洗い髪を後ろにたばねて軽く一つに結い上げている。いくぶん目を伏せてうつむいた横顔に浮かぶ薄青い印がほてった白い肌にくっきりと映えている。凛々しくも気品ある挙措に加え、成熟した男ざかりの色気が漂って、非の打ち所とてない惚れ惚れするような男ぶりであった。
そうした父の持つすべては、若い殺生丸がそのまま受け継いで身につけているものであったが、殺生丸自身はそんなことには気づかぬ。ただその姿に声もなく見とれても、今ここでどうしてもその父の前に出られぬ言い訳にはならなかった。殺生丸はまたそっと体をひいた。
(どうしてしまったのだ、私は・・・)
急にパシャリという湯の音がし、父が近づいたような気がして殺生丸はおののいた。湯上がりの湯帷子はかたわらの岩の上に置き放してある。父に気づかれずに湯から逃げ出すことはとうていかなわぬだろう。
(馬鹿げている、こんなことは)
殺生丸は両手で自分の肩を抱きしめた。父に見つかるのがこわかった。声をかけられるのが恐ろしかった。そばへ寄ってこられることを思うと、独りでに体が震えてくるのをとめられなかった。
(私はどうかしている)
どれくらいそうしていたのか、ふと気がついて、彼は顔を上げた。
(父上・・・いない)
いつの間にか父の姿は消えていた。息をひそめていた息子をそっとしたまま、父は一人静かに立ち去ってしまったらしかった。無意識に肩に入っていた力を抜いて、殺生丸はため息をついた。
(行ってしまった・・・父上)
同じ湯に浸かっていながら声もかけてこぬ息子を、いぶかしいことよ、よそよそしい振舞いよと思ったに違いない。殺生丸は少女のような柔らかな唇をかみしめた。
頭がふらふらして重かった。だるい体を起こして湯から出ると、濡れたままの髪もかまわずに浴衣を体にまといつける。帯を結ぼうとしたがひどく気分が悪くて立っていられなかった。
(湯あたりしたのか・・・だらしのない)
岩にもたれて座りこんだまま、彼は自嘲気味にそうつぶやいた。目を閉じてじっとしているのに頭がゆれうごくような気がした。
気分が悪く、室に戻りたかった。自分では起き上がって部屋へ向かったつもりだったが、実際は座ったままの姿勢から崩れるようにその場に倒れこんでしまったのだった。
気を失う寸前、誰かが自分を支えて抱きおこしたような気がしたが、記憶はそこで途切れてしまった。