数日もたたぬうち塗籠に押し込められたままの殺生丸のもとに妖忍どもが忍び入り、その手引きで、山中のある場所へ父大将をおびき出す密約がかわされた。その、約定の日を待ちかねて、既に妖忍たちはあらかじめ示し合わせた場所へ、ひそやかに集まりつどうていた。
一族の端の端まで人数をかきあつめ、頭ともども今や遅しと待ちかまえる。
(おかしら、そろそろ月が)
(妙だの。もう姿を見せてもいいころだが)
(殺生丸め、怖じ気づいたのでは)
(いや、まだ決めるのは早い、おっ)
待ち受けていた妖忍たちの間にしのびやかな衝撃がはしった。
(や、出てきた)
(現れたぞ)
(犬の大将だ)
(・・・闘牙王)
巨大な妖気の渦巻く雲に乗り、月光にきらめく銀色の毛皮をなびかせた威風堂々たる化け犬が、上空に姿を見せたと思うと、たちまちその体は牙の妖鎧をまとった一人の男の姿に変わり、草原に舞い降りた。年月経た大妖怪らしい凄まじい妖気がたちまち辺りを払い、妖忍たちの背は覚えず粟立った。
(来たな)
(犬の大将だぞ)
(ぬかるな)
気配を消したひそやかなざわめきも知らぬげに、降り立った人影はまるで花でも摘みに来たような様子であった。月明かりに長い銀髪を垂らした端正な顔がくっきりとあらわになる。天性の威儀はおのずからその身にそなわり、見るものを圧倒する静かな威厳に妖忍たちは息を呑んだ。あらわになったのはその顔だけではなかった。腰に差されたはかの名高い天下覇道の三剣の一、一振りで百の妖怪をなぎ倒すという妖刀鉄砕牙、そして背に斜めに浮かぶのは地獄の門をも開くと噂される恐怖の魔剣、叢雲牙か。
(恐るべし、犬の大将とはこのような敵か)
位負けというべきか、いささかたじろいだ妖忍たちが、浮き足立ったのを、さすがに頭が制した。
(騒ぐな、者ども。かかる敵のためにこそ周到に仕組んだ罠ぞ。かねて下知したる通りに従え)
(散開せよ、散れ、散れい)
(彼奴を囲むのだ)
つと、月が雲に隠れた。暗闇の中、妖忍たちは刀の鯉口を切って、頭の合図のもと一斉にその人影に殺到した。ほとんど四方からその体に斬りかかったとき、人影はふいに姿を消した。倒すべき相手を見失い、狼狽した妖忍たちがあたりを見回したときだった。
雲間からあらわれた月の光がその場のすべてを照らし出した。
(な、何だと)
(こはいかに)
敵を倒すどころではなかった。今や妖忍たちの周りは完全に取り囲まれ、その崖の上にはかたわらに愛息を従えた犬の大将の姿があった。息子殺生丸はまったく乱れた様子もなく、雅やかな桜の袂をはためかせ、冷ややかな笑みを浮かべて父のそばに寄り添っている。
(そんな、バカな)
「き、きさま・・・」
「ふふ、愚かものどもが」
大将はばかにしたように笑った。
「策士策に溺るとか。まんまとワナにはまりおったな」
妖忍たちはすべてをさとった。
「殺生丸、貴様、裏切ったか!」
「裏切るだと」
美しい表情に辛辣な笑みを浮かべて、殺生丸は言い捨てた。
「この殺生丸が、いつ、誰を裏切っただと。うつけ者めが」
「犬の大将に酷い目にあわされて、寝返ったのではなかったのか」
「ひどい目にだと。ほう、いったいいつ、どんな目に父上があわせてくれたというのだ。教えてもらおうではないか」
殺生丸は嘲弄した。
「あいにく私は貴様らなど知らぬ。誰か別のものと取り違えたのではないかな。妖忍などと、おおかた目玉はふし穴の抜け作ぞろいと見ゆるわ」
「おのれ、さ、さては身代わりを―――?」
「知れたこと」
かたわらで聞いていた父大将が嘲笑した。豊かな銀髪が風に吹きなびく。
「気づかなんだとは片腹痛い、なんで可愛い秘蔵っ子の殺生丸を、きさまら卑しい下衆どもの自由にさせるはずがあろうかよ」
「たばかりおったな!」
「愚か者が」
もう一度父大将は言った。
「では、あの父子の争いも手ひどい折檻も」
「それも皆、貴様らをおびき出すため、父上がさせた謀りごとよ」
側にいた殺生丸があざけるように言い放って、すらりと手を伸ばした。その爪先が不気味な妖毒の青に燃える。
「もはや問答無用、妖忍ども皆殺しじゃ。いざ、殺生丸よ、父に遅るな」
「なんの、父上こそ」
ひらりと若い体が宙に飛び、電光のようにその手がひらめくや、あの館に忍び込んでいた下忍の二人の首がたちまち掻き切られて地面に転がった。それを皮切りに付き従う者たちがわれ先にと妖忍どもに襲いかかる。戦いの始まりであった。
犬の大将の放つ風の傷は大地を切り裂き、物陰にひそんだ妖忍どももろとも木っ端微塵に打ち砕いてゆく。殺生丸は襲いかかる敵を俊敏にかわして、みなぎる毒の爪は敵の肌を溶かし、襲いかかる骨までやすやすと切り裂いて後ろには屍の山が築かれてゆく。
結末はあっけなくついた。二刻とはたたぬうちに、妖忍どもの屍骸はそこいらに転がり、敵は文字通り包囲殲滅させられて、あたりは血腥い海と化していた。殺生丸は鮮血淋漓となって、死骸の只中に立つ父のもとへと飛び戻った。父も血ぶるいして刀の血を払い、さやにおさめた。
「父上」
「・・・存分にたのしんだか」
「はい」
父と子はよく似た金色の眼に笑みを浮かべて、視線を交わした。それは心優しい父と愛息子の姿ではなく、代わりに獰猛で血の匂いを好む危険な妖怪一族のそれであった。父は満足げに我が子殺生丸の血を浴びた凄まじい有り様を見やった。これでこそ妖怪の子―――正しく混じりけなしの妖怪の子であった。
「もはや薄汚い妖忍どもが我が一族をわずらわすこともない。いでや者ども、館に戻って祝杯をあげようぞ」
* * *
かねてより懸念の妖忍どもを一網打尽に片付けたことで、祝宴はいやがうえにも盛り上がっていた。
「しかし妖忍どもめ、見事にワナにはまりましたな」
「いやまったく」
「やつらめ、本当にあの身代わりを御曹司と思い込んでおったのですかな」
「底抜けのたわけ者どもよな、我らには考えられぬわ」
「お館さまがそのようなことを許すはずがないと我らにはわかっておりましたが、しかし塗籠から御曹司の悲鳴が聞こえてきたときは、正直いささかギョッとしましたぞ」
「ははは、それもお館さまの深い計略、まず味方をあざむかねば敵もあざむけぬ道理であろうが、のうお館さま」
「しかし、そもそもあれはお館さまの思いつきによるものでしたので?」
玉の大杯を傾けながら、犬の大将は上座で苦笑した。
「なんでわしが目に入れても痛くない可愛い息子を、かりそめにもあのような策略に使おうなんぞと考えつくかよ。あれは皆殺生丸が申し出でによるものじゃ。実際、見事に当たりおったな」
「ではすべて御曹司のご差配によるもので」
「さすがは御曹司じゃ」
「天晴れなお働き」
「いみじくもはかられたり、殺生丸さまお手柄じゃ」
「妖忍の痴れ者どもが、よいざまじゃ」
御曹司の手柄をたたえて、やんやの喝采がわき起きる。父はかたわらで杯をなめている愛息を見やった。
「どうじゃ、一献」
「・・・いただきます」
臆する色もなく父の勧める美酒をなみなみと注がれて、殺生丸は白いのどをぐっとのけぞらせて大杯を一息に飲み干した。たちまち一座からまたどっとはやしたてる声があがる。息子のほうは白皙に冷ややかな笑みを浮かべたまま、なおも銀杯のうちをながめている。周囲がまたわっとそのそばにむらがり、賞賛の言葉を雨あられと浴びせかけるのへ、殺生丸はさして心動かされたふうもなく、注がれる酒を無造作に干してゆく。
「殺生丸、今宵は少し過ごすがよいぞ」
上座から父が機嫌よく声をかける。
「酔うたら、父が抱えて寝所へ運んでやるゆえ安心せい」
「なんのこれしきの酒」
殺生丸は答えて杯をあげたが、その顔色には酔った色もなく、口辺に笑みこそ浮かべていたが、その表情はあまり楽しんでいるようでもなかった。皆は気にしなかった。殺生丸のそうした感情をおもてにあらわさぬ冷淡さはいかにも生粋の妖怪らしい気質として、むしろ一族から好感を持って見られていた。
ともあれ宿敵は一掃され、今は何の後顧の憂いもなしとあって、安堵と共に宴席の一座の騒ぎようはいっそう派手やかに賑やかになるばかりであった。
父大将は表向きそうした宴の華やかさに気を取られているふりをしながら、無言のまま杯を含んでいる息子の様子をそれとなく見守っていた。
その場の者たちは何も知らぬ。
妖忍どもに身代わりを差し出したというのは実は偽りであった。彼らは巧みに裏をかかれたりと思って狼狽したが、それもそのはず、下忍たちが殺生丸と思っていたのは、ただしく本物であったのである。父は一度は身代わりを考えたが、やはりどう取りつくろおうと、身の発する妖気はしょせんごまかしようもなく、妖忍どもをあざむくのは難しいと知って、殺生丸は自らその役を買って出たのであった。
(ここまで来て彼奴らを取り逃がすのはあまりに惜しいこと、あと一押しではございませぬか)
(そなたはそう云うてくれるが、いかんせん、こなたの身をあのような下衆どもの薄汚い手にゆだねるなど、企みとはいえ、父にはちと忍び難く思われる)
(さようなことはお心にかけられるまでもありませぬ。なんとしてもここで妖忍どもをおびき出し一網打尽にしてしまわねば、後々までも一族の災いとなりましょう)
すでに忍びこむ妖忍どもに散々わずらわされて、内心腹に据えかねる思いをしてきた折でもある。この機にうるさいハエどもを一思いに殲滅せしめることができれば、これに勝る策はない。既に父子不仲の噂を流し、またそれらしい策もしかけて半ば信じさせ、もう一息というところまで来ている。確かにここで手を引くのはいかにも残念な限りであった。
(しかし、よりにもよって殺生丸を)
父は迷った。
(ここで奴らを油断させ、わが寝返りを信じ込ませればもはや策は成ったも同然、何を迷うことがありましょう)
結局、若い殺生丸がわずか数刻の自分の犠牲を惜しんで、この好機を逸するは惜しいと父を押し切ったのである。はたして殺生丸の果敢な策は見事に図に当たり、妖忍どもはうまうまとおびき出されて残らず殲滅の憂き目に会い、今この祝宴を迎えることができたわけだが・・・・
知っているのは父と息子のみである。殺生丸は平然として気にする様子はまったく見せておらぬ。あまりに恬淡としているので、父大将にさえ何もかも幻だったのではないかと疑われるほどであった。
(本当にそうならよいのだが)
父の複雑な思いを知ってか知らずか、殺生丸は日頃はそうも飲まぬ酒をすすめられるままに次々とあおり、乳のように白い頬を桜色に染めている。伏せたまぶたに引かれた紅がいっそうあだっぽく、白い袂からはつかに見えるほっそりした手の目にしみるような皓さと相俟って美女にもみまほしいほどのあでやかさ、咲く花の匂うが如く、その有様はさながら絵巻物の一幅を見るようであった。
(殺生丸)
そうした立ち居振舞いのすべてを見ながら、父はある不安を抱いていた。何事もなくあってほしいと思ったが、もしやという思いがそれに打ち勝った。
(何もなければそれはそれよ)
座にすわりなおして、父大将は座のものたちに云った。
「やれやれじゃ。わしは少し湯になどつかって、のんびり憩うてこようと思うが、どうであろうな」
「おお、それはよい、お館さまもちと休んで英気をお養いなされい」
「殺生丸、どうじゃ、わしと共に湯浴みがてら一息いれて気晴らしの遊山とまいろうぞ。たまには父に付き合え」
「・・・は」
打てば響くような答えとはいかなかった。殺生丸が一瞬躊躇するような表情をちらと見せたのを、鋭敏な父はみのがさなかった。しかし相手がすぐさまその表情を消して何事もないかのようによそおったので、父はその場では何も気づかぬふりをした。
「俗な騒ぎはもううんざりじゃ。二人きりでゆっくり温泉で骨休めとしよう。のう、殺生丸」
「―――はい」
素直に息子は答えた。しかしその美しいおもてからは、ふいに先ほどまでの血の色はひいて、金色のひとみにわずかに翳がさしたように思われた。
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