崩れた白霊山の谷間で、折れた桔梗の弓を前に投げかけられた、あの言葉がふいに耳元によみがえる。
(その女を殺したのは奈落だ。そして女を守れなかったのは犬夜叉、お前だ)
(守れなかったのは、お前だ)
(守れなかったのは)
「ちくしょうッ」
(おれは桔梗を守れなかった。殺生丸のやつは妖怪の身で結界にまで踏み込んで、あの小 娘を守りきったのに)
(おれにはできなかったことを、殺生丸は見事にしとげてみせやがった)
(畜生、ちくしょう、ちくしょう、畜生ッ)
「かかってきやがれ、この外道どもッ、まとめて鉄砕牙のえじきにしてやる!」
犬夜叉は内心の思いを振り払うように怒鳴った。鬼どももどうやら殺生丸が疲れてきているのに気づいたらしかった。
「へっへ、弟のほうは威勢がいいが、そっちの兄貴はそろそろ息があがってきてるようだぜ、おい、取り囲んで追いつめろ」
「色っぽいねえ、たまらんぜ」
仲間が殺されたことなど、妖怪どもは歯牙にもかけぬ。カギ爪が殺生丸の袖をかすめ、袖からむき出した象牙のような白い腕に鮮血が赤い珠のようにしぶくのが見えた。
(チッ)
敵の数こそ減らしたものの、主だった輩は互いに一体化して、鬼たちはいまや数頭の手強い相手と化してかたまっていた。彼らはその気のまったくない犬夜叉にさえ頭に血が昇るような、いやらしい舐めるような視線をなおも兄に向けている。
(くそっ、大丈夫か、殺生丸のやつ)
敵がこんないかがわしい目で兄を見ているのが我慢ならなかったが、それよりも問題なのは、半妖の犬夜叉の鼻にすら、その兄がかなり消耗して力を削がれてきているようなのが察せられてきていることだった。
(くそいまいましい奈落の野郎め、こんなときにまでたたってきやがる)
奈落のことがなければ白霊山のこともなく、殺生丸が聖域の結界に踏み込むこともなく、こんなところでこんな卑しい妖怪どもの物欲しげな噂の口の端にのぼることも襲われることもなかったであろう。考えれば考えるほど胸は煮えたが、今はそれすらかまっておれぬ。
殺生丸が軽くよろめいてつと身を沈めた。一瞬、疲れから倒れかかると思い込んだ数人の鬼たちがこの機を逃さじと喚声をあげてつかみかかった。
(!)
(殺生丸!)
目にもとまらぬ早業であった。
体を沈めた白い姿に青黒い体がてんでに折り重なりかかったと思った瞬間、ドクンと妖剣の脈打つ音が聞こえ、白い稲光さながら凄まじい剣圧が吹き上がり、鬼たちの体を一息で骨まで見えるほどズタズタに引き裂いた!
猛然敵の全身から血は霧と化して噴き上がり、血まみれの鬼たちがよろばい下がるところをなぎ払うその名もまさしく鬼の牙たる闘鬼神が追いかける。
ただ一撃―――空に舞いあがる白い蝶さながら跳躍した雪のたもとがひるがえるや、なぎはらう殺生丸の華麗な一颯に妖怪は文字通り右から左へ撫で斬りにされ、鬼の首は三、四個も連ね、血煙りと共に宙へはね飛んだ。すべてが終わるまで、ほんのまばたきするほどの間の技であった。
「つ、強い・・・」
「すごい・・・」
何度も犬夜叉と対決するところを見てはいるものの、人間たちには殺生丸が他の妖怪とこのように正面から闘うのを見るのはほとんど初めて―――今その鮮やかな戦いぶりを目の当たりにして、皆は今さらながらその恐るべき強さ、手練の見事さに驚嘆する思いであった。
殺生丸の白い体が音もなく爪先から地面にふわりと降り立つ。長い銀髪と白い袂の亀甲紋が優雅に風にはためいた。だが兄にしてもこれがぎりぎりの一戦だったに違いない。
着地したときその足元がわずかに乱れ、夕顔の花より白いおもてに美しい眉が苦しげに寄せられたのを、敵も弟も見逃さなかった。
がら空きになったその背後へ、とっさに背中あわせに犬夜叉が飛びおりた瞬間、打ち下ろされた鉄棒もろとも鉄砕牙は辛くも妖怪の背骨を断ち割って、真っ二つにされた敵の上半身が砂煙をたてて後ろへ転がった。
「殺生丸」
弟の呼びかけにも兄は答えない。ただ平素にも似げない荒い息づかいが背後から聞こえてくるだけだ。兄弟は互いに背中をあずけながら、剣をかまえたまま何とか息をととのえようとした。
(殺生丸、ちっとこの場を離れろ、てめえがそこにいると思い切り技が使えねえ)
(・・・知るか、勝手にやっていろ)
(片意地はるのもたいがいにしやがれ、残りは俺が鉄砕牙でかたをつける、いいからて
めえはひっこんでろ)
(うるさい)
(ばかが、どうなっても知らねえぞ!)
「このやろう、女みてえな顔しやがってよくも」
かろうじてその剣圧から逃れ去った一匹が歯をむき出してうめいた。さしも欲情にかられた愚かな妖怪たちも、そろそろ相手が違うことに気づいたようであった。半妖と呑んでかかったはずの弟は思いがけず手ごわい戦いぶりを見せて兄のそばから離れず、兄はまたいくぶん息を乱しつつも容易に屈する気配を見せぬ。見かけの佳麗優美にだまされてこんな危険な相手を敵にまわしたことを遅まきながら鬼たちは後悔したが、今さら後へは引けへもせぬ。
「くそっ、ここまで来て取り逃がすか」
「えい、あと少しだぞ、あの半妖野郎のそばから引っぱがせ」
「こんな綺麗どころはまたといねえぞ、のがすもんか」
殺生丸の息はようやく荒くなってきていた。鬼たちはついに互いに寄り集まって一体となり、残ったただ一匹となった大鬼がなおもしぶとく兄に襲いかかった!
(ちくしょう、なんてあきらめの悪い妖怪どもだ、しつこく奴にからみやがって離れや
しねえ)
犬夜叉は内心でののしった。おもてには見せぬながら、すでに兄の消耗はかなりのものとなっているようだった。だが殺生丸は依然として犬夜叉らが戦おうがどうしようが目もくれず、迫る妖怪を相手をたった一人で戦い続けていた。その人を寄せつけぬ孤高の戦いぶりには、なにかしら高貴としか呼ぶ以外にない何かがあった。
不承不承ではあったが、弥勒はこの犬夜叉の兄に敬意の念をいだかずにはおれなかった。
(ともかくあっぱれ大妖怪というべきだろうな、この体でこの戦いっぷりとは)
その兄の様子に弥勒がみとれていなければ、彼は寸前で犬夜叉を止められたかもしれぬ。だがはっと気づいた法師がふりむいたときには時既に遅く、鉄砕牙の周りにははやあの凄まじい妖気の渦が沸き起こり、沸騰するその空気は迫りくる嵐の前兆にも似て、周囲の土くれをはね上げ、小石を弾き飛ばしはじめていた。
(犬夜叉、いかん、まさか爆流破を?)
「どけ、殺生丸ーッ」
両手に鉄砕牙をひっつかみ、犬夜叉は長い白髪を猛々しく風に吹きなびかせつつ、なおも兄に激しくつかみかかる妖怪めがけて身を躍らせた。