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あにおとうと :其の二


「今日は一日ここにいたのね」
「うん、邪見さまが、もうあと一日くらいしたらすっかりよくなられるからって。今日明日がトウゲだからって、トウゲってどういう意味かよくわかんないんだけど・・・」
「そう、そうだったの・・・」

 眠そうなりんを向こうへ帰し、かごめは首をかしげた。

「ずいぶん無理をしたのね。見てるとちょっと気の毒・・」
「人間の体から完全に瘴気が抜けるまで数日かかる。妖怪の場合も似たようなものかな、珊瑚」

 弥勒が問いかけた。

「わからない、殺生丸ほどな大物の妖力ってのは、あたしたち退治屋がいつも相手にしてるようなそこいらの妖怪なんかとは格が違うもの。それにしても、いつもより生気がないように見えるのは確かだけどね」
「疲れているんでしょうな。無理もないが」
「うん、あんなに疲れたような顔してるの見たことないわ。犬夜叉と違って顔に出るほうじゃないと思ってたんだけど」
「あの気位の高い兄上にして隠しきれぬほどとは、よほどの疲れか・・・」

 突然、ゆらりと奥の人影が立ち上がったので、皆はぎょっとしてそちらを見た。

 「・・・!」

 犬夜叉がとっさに鉄砕牙に手をかけて身構えたが、殺生丸は目もくれず、すっと音もなく目の前を横切って、一人、堂の外へと出て行ってしまった。

 (あれ・・)
 (もしかして、うるさかった?)
 (どうしよう、あたしたちうっとおしかったかな)
 (きっと我々の熱い注目を浴びているのがイヤだったのかも)
 (悪かったかな、せんさくして)
 (なんだか後から来て、雨の中へ追い出しちゃったみたい)

 もともと、犬夜叉との間に確執こそあれ、かごめや珊瑚や弥勒たちの側では何ら含むところがあるわけではない。こと鉄砕牙にかかわらぬかぎり、殺生丸のほうでもわざわざ犬夜叉の人間どもをかまう気はないらしかった。

 (でも、どうしたんだろ)
 (どうしたのかしら)
 (気になるのう)
 (気になりますねえ。ちょっとのぞいてみて・・・って、おわッ)

 突然、壁ごしに板壁を紙切れのようにぶち破ってギラリと光る両刃の剣が皆の前に突き出されたので、一行は文字通り飛び上がった。

 「・・・うるさい」

 壁の向こうから、静かな声が聞こえた。

「どわわわ〜」
「ひえええ」
「す、すみません、うるさかったですか、そうですか」
「あ、あの、もう寝ようよ、ね、かごめちゃん」
「そそそうよね、も、もう寝たほうがいいわよね、珊瑚ちゃん、弥勒さまも」
「あの、そ、そういうことですから、おやすみなさい」

 あたふたとかごめ達は壁から離れ、てんでに寝場所に横になる。炉の火はあわただしく吹き消されて、堂内はようやく静かになった。

 (けっ)

 犬夜叉は終始仲間たちの話には加わらず、一歩はなれてこの光景をながめていた。通り過ぎる兄の体からは、まだ新しい血の匂いがした。一人で聖域に踏みこむとは、邪見も兄の剛胆さに肝を冷やしたろう。

 (中でおとなしく寝てりゃいいもの)

 いつもより心持ち白い兄の顔色を思い浮かべながら、犬夜叉は鉄砕牙をつかんで堂の外へ出た。
 軒下の柱に片膝たててもたれかかったまま、殺生丸は物憂げに手の傷をなめていた。白霊山の戦いから数日、受けた傷はもう癒えているはずなのに、体内に残る霊気の影響なのか、傷はまだ時折り血がにじむらしかった。

 (かったるそうにしやがって)

 雨はやむ様子もなかった。冷たいしぶきは軒先にあたってはねかえり、殺生丸の足元をぬらしていた。

「・・・中に入らねえのか」

 殺生丸は黙ったまま、物憂そうに雨のほうを見つめたきり、犬夜叉のほうを見ようともしなかった。雨は犬夜叉の緋色の衣にもふりかかり、そのすそを冷たく濡らした。

「無茶しやがって」

 こんな晩の雨はあまりありがたいことではなかった。雨は妖怪たちの臭いを洗い流し、風下や上空からしのびよる敵の気配を消してしまう。近づく敵を察知するのはいつも以上に神経をつかう作業だった。

「――天生牙も、当の使い手を生き返らせることはできねえんだろう。ちっとは考えやがれ」
「・・・・・・・」」

 空は雲に覆われて星もなく、地には蛍の光もなかった。兄弟は、妖怪の鋭敏な視覚でかろうじて見える暗闇のなかで相対していた。こんなとき、こんな相手と話すには、この闇の深さがむしろありがたかった。

 犬夜叉の心は、まだ桔梗を死なせた痛手でうずいていた。その場にいた殺生丸に思わず発した自分の言葉――

 (てめえ、黙ってみていたのか、桔梗が殺されるのを・・・!)
 (助けられなかったのは、犬夜叉、おまえだ)

 人が死ぬのを見過ごすのは悪だ、などという人間の不文律が、この妖怪の兄に通用するわけはないのだった。
 無意識のうちに期待すべきでない相手に期待し、当たるべきない相手に怒りの矛先を向けた、自分でも気づかないわずかなその甘えを、殺生丸は敏感に感じとったのだろう。
 甘ったれるな、という声にならぬ声が、その言葉の裏に今も響いてくるような気がした。
 (腹を立てるなら、守りきれなかった自分自身に云うがいい。この兄に当り散らす
  ような甘えた真似は許さぬ)


 犬夜叉には、何も云えなかった。犬夜叉には守りきれなかったものを、殺生丸は守ってのけたのだ。今の兄の幾分すぐれぬ顔色は、その代償なのだった。

 (――冷えてきたな)

 犬夜叉はちょっと身震いした。殺生丸はまだけだるそうに外を見つめていた。犬夜叉がふいに上衣をぬいで殺生丸の上にふわりとまわしかけたので、相手はつと眉をあげてこちらを見た。

「仲間が屋根取り上げちまった代わりだ。黙ってかけてろ。お前に一夜の宿くらいで借りなんぞ作る気はねえからな」

 つっけんどんにそう云うと、弟は鉄砕牙を抱いてドサッとその場に座りこむ。

 少しおいた暗闇の向こうで、兄がかけられた上衣をそっと自分の体にかけ直す、かすかなきぬずれの音が聞こえた。



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