離れようとする自分のくちびるをほんの一瞬兄のそれが追ってよこしたように思えたのは、気のせいか。花びらと花びらがふれあうように、ほんの一呼吸だけ長く、二人の唇はふれあい、柔らかなほんのりとした感触が弟の唇の上に残った。
犬夜叉は体を起こすと袖で口元をぬぐい、照れ隠しのようにぷいと横を向いて、長い白髪を荒っぽく後ろにはらいのけた。相手の顔を見ないまま、手元の薬を引き寄せる。
「また出血してるんだろう。ちょっと見せてみな」
有無をいわせぬ手つきでもって、飾り帯をといて中の紐をゆるめ、着物の片脇をはだけると、一番大きな傷口にあてがわれている血の染みた真っ赤な布があらわになる。犬夜叉が不器用な手つきでそれをはずし、薬を塗った新しい布に換えてよこすのを、殺生丸は他人事のように平静な表情でながめていた。
それは少女の優しい手つきとは似もつかぬひどく無骨なやり方で、犬夜叉がぐいと布を押し付けたとき、苦痛に一瞬怪我人の体がこわばったが、しかし兄は目を伏せて何もいわなかった。
「・・・深いな。少し肋骨が見えてる」
布を巻きなおしながら、ぽつりと犬夜叉がつぶやいた。
「よくふさいどかねえと、また出血するな」
「・・・・・」
「朝までに止まるといいんだが」
着物の前をあわせて帯を結びなおしながら、犬夜叉は云った。兄は相変わらず何も云わぬ。みずからの毛皮にもたれたまま、殺生丸は黙って身をよこたえていた。
「しばらく動かさねえほうがいいんだろうな。つっても、動くに動けねえだろうけど、流れ過ぎた血を袂が吸って、絞ったら血がしたたるくらいだったんだから」
「・・・・・・・・」
「・・・痛むのか」
「・・・」
「白霊山の霊気ってやつは、まだ抜けねえのか。しつけーもんだな」
「・・・犬夜叉」
突然、殺生丸が口を開いたので、犬夜叉は耳をピクリとさせた。
「なんでい」
「先ほどの技」
「ああ―――爆流破か」
「・・・爆流破」
「すげえ威力だったろ。その―――悪かったよ、具合の悪いところにぶつけてな」
ためらいがちに弟は云ったが、兄はそのことには何もふれなかった。
「どこで、覚えた」
「つい最近だ、使えるようになったのは。重くて使いこなせねえ鉄砕牙を軽くするのに竜骨精の心の臓をつらぬけって刀々斎のじじいに言われてよ。やつと一戦まじえて息の根止めたんだ。そんときさ、爆流破ってやつを覚えたのは」
「―――竜骨精」
「おうよ。おかげで鉄砕牙は吸い付くように軽くなったぜ。もうてめえにはじきとばされたりしやしねえからな」
「・・・封印されていたろう」
「竜骨精か?ああ、だが奈落が親父の爪溶かして封印を解きやがった。それで正面からぶちかましてやったんだ」
犬夜叉は得意そうに言った。
「それだけじゃねえ、百鬼蝙蝠知ってるか」
「百鬼蝙蝠」
「西国の化けコウモリさ。奴らの結界を保つっていう血玉珊瑚を斬ったおかげで、鉄砕牙に奈落の結界を斬れるぐらい強い妖力がついたんだ。斬った敵から妖力を吸い取るんだそうだぜ、鉄砕牙ってやつは」
「・・・・」
「結界破りの赤い鉄砕牙だ。見てろ、これで必ず奈落の野郎をぶった斬ってやる」
「・・・・」
「――止めに、来たんだってな。あんとき」
「・・・・」
「かごめが云ってた。おれが――おれが、重い鉄砕牙取られて変化しちまったとき、おまえがやってきておれを静めたって」
「・・・・・」
「自分のこともわからない奴など殺す価値もない、か・・・・殺生丸――おれは・・・・
・・・」
「・・・・・」
「黙ってねーでなんか云えよ。おればかししゃべってるみたいだ」
「・・・・・続けろ。聞いている」
「別に――話すことなんか・・・・・」
「・・・・・」
「なんで、わざわざ止めに来たんだ。そのままほっといてもかまわないんじゃなかったのか。半妖のおれなんぞ、どうなろうとかまわねえって思わなかったのか」
「・・・・・」
「どうしてやってきた。どうしておれを止めた。おれを殺すなら正面からやりたかったからか。半妖のおれが自分を見失ってるのが見苦しかったからか。おれが――おれが、おまえと同じ親父の血をひいた兄弟だからか」
「・・・・・・・・・」
(ただ闘うだけの化け物になり果て、その身が滅びるまで闘い続ける)
(おぬしの父は、犬夜叉にそうなってほしくなかったのだろうな)
(犬夜叉にそうなってほしくなかったのだろうな―――)
(そうなってほしくなかったのだろうな―――)
(・・・・父上―――)
犬夜叉も本当は答えを期待しているわけではなかった。めったに近くで見ることのない腹違いの兄のととのった美しい横顔を、犬夜叉はぼんやりとながめた。
(化け犬のときの姿は、親父に生き写しだっていうが)
人の姿をとっているときも、その面影はやはり父に似ているのだろうか・・・