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あにおとうと :其の十七

 

 「ちっ、一人で水も飲めねーのか、ほらよ、」

 気持ちはともかく、犬夜叉があまり怪我人の介抱向きでないのは確からしかった。前ぶれもなく今度は手荒に抱え起こされて、さしもの殺生丸も低くうめいて脇の傷をおさえた。

 「う・・」

 「少しこっちへもたれかかってろ、そら」

 一人で起きられもしない相手にもたれてろもないものだが、殺生丸はともかく息を吐いて無理やり引き起こされた背から犬夜叉のふところに寄りかかった。やむを得ぬ仕儀だったとはいえ、昼の無謀な反撃はさしもの殺生丸にも高くついた。打ち続く急激な出血は妖怪の体にも激しい負担を強い、今は頭を起こしていることすらつらかった。

銀色の頭が重たげにゆれ、半ばのけぞるようにして、かろうじて犬夜叉の肩にもたせかかったが、犬夜叉は今ひとつ兄の加減がつかめぬらしかった。

 「飲まないのか、おい、どうした、殺生丸」

 悪気はなくとも、そう荒っぽく揺り動かされると気が遠くなりそうな気がする。

 「・・・・きさま・・・この兄を、殺す気か・・・」

 乱暴な扱いに辟易して殺生丸はつぶやいた。ムッとした犬夜叉が言い返す。

 「なんだと、おれは介抱してやってんじゃねーか、水飲ませようとしてやってるのに文句いうな」

 (こやつ)

 何か言い返そうと思ったが、出てきたのはかすかなあえぎと苦しげな小さい咳だけだった。頭が熱く重かった。くるしげに眉を寄せて目を閉じてしまった相手にさすがにそれ以上も言いかねて、犬夜叉は毛皮もろとも兄の体を抱いたまま、手にした竹筒をまたその唇におしつけた。水はいくぶんその乾いたくちびるを濡らし、殺生丸はまたせき込むと、押しつけられた竹筒から苦しそうに顔をそむけてしまった。犬夜叉は困惑して舌打ちした。

(ち、いったいどうすりゃいいんだよ)

 水が欲しくないわけではなかったが、こう乱暴に突きつけられても一人では口に含むこともできず、飲み下すだけの力もないのだということが、犬夜叉にはわからないらしかった。かすれた声で殺生丸は云った。

 「もういい・・・」

 「って、飲まねーのか」

 「・・・・・・・」

弟は傷ついた兄の体を見おろした。抱いた体は絹の布地ごしでもそれとわかるくらい熱かった。のどの渇きはおさまらないに違いない。もたれている殺生丸のひたいが熱の汗で真珠色に光っているのを、犬夜叉は片袖でそっとぬぐった。

 (いっそ酒でもあるといいんだけどな)

 犬夜叉はぼんやりとそんなことを思った。二晩も続けて兄と過ごす機会はめったとなかったし、こんなふうに体温を感じるほどそばにいるのも稀有なことだったので、自分でもなぜだかわからないまま、兄の体を抱きかかえて弟はぐずぐずしていた。もたれかかったままの殺生丸が、またのどが痛むような咳をした。犬夜叉はもう一度水筒を口元に持っていったが、兄は目を開けようともしなかった。

(わかってるさ)

 見おろす犬夜叉の金色の目に痛切な光があった。

(どうせ、半妖なんぞに手を貸して欲しくねえってんでおれの手からは飲まねえんだろ。けっ、水なんざなくたって死にゃしねえよ、おれなんぞと違って本物の妖怪なんだから)

 淋しさと苛立ちを半ばずつ抱いて、弟は不機嫌な面持ちでなおも動かぬ兄を抱き寄せたままじっとしていた。その敏感な鼻にまた新しい血の匂いが漂ってくる。空咳のせいで傷が開いたのかもしれない。

(ち、冥加のやつ、鉄砕牙がそばにありゃ血が止まるとか何とかほざいてたくせに)

「・・・犬夜叉」

 静かに声をかけられて、犬夜叉は我に返った。

「お、おう」

「下に、おろせ」

「けど、水を・・・」

「もういい。横になりたい」

「でも、でも少し飲まねえと、体が―――」

「犬夜叉」

 これ以上ないくらい物静かな、優しくおだやかな声音だった。犬夜叉ははっとした。

「これ以上起きているのがつらい。頼む」

「・・・・・・すまねえ」

 口の中でつぶやいて、弟は素直にその体を放し、そっと重たげな銀色の頭を支えて再び毛皮の上に横たえさせてやった。長い髪は本物の銀糸のようになめらかに頭の両脇に流れ、熱っぽい吐息が犬夜叉の頬にかかる。傷ついた体はアザミの冠毛のように軽かった。

「殺生丸―――」

「・・・・・」

 兄は何も言わぬ。疲れたように投げ出された白い右手を、弟は黙ってながめていた。

(ちくしょう、だっておれは―――だって、おれは)
(殺生丸)

 傷ついたときの喉の渇きは、犬夜叉にはよくわかっている。黙って耐えるのが妖怪の常であることもわかっていたが、その傷の理由を思うと今はどうにもいたたまれなかった。犬夜叉は手元の竹筒を見た。

(―――けっ、どうにでもなりやがれ)

「――?」

 突然頭を抱え込まれて、殺生丸は熱で気だるげな眼を開きかけた。と、誰かの手のひらがその両目をつとふさいだので、兄はおどろいて反射的に体を起こそうとした。

「バッカ野郎、いいから目つむってろ」

 不機嫌な声が上から聞こえ、何かが顔にちかづくのがわかった。

「いいか、目開けたら承知しねえぞ。くそっ、こんなことするのは今回が最初でこれっきり最後だからな、絶対二度としねえから覚えてろ」

 ぶっきらぼうな口調もろとも、目隠しされたままの頭が軽くかき寄せられたと思うと、驚きに半ば開かれたくちびるに誰かの唇がふれ、わずかな水がそっと流し込まれてくるのが感じられた。

(犬、夜叉・・・)

 押しつけられた頭がわずかに震え、投げ出された殺生丸の手にかすかな力がこもる。

(犬夜叉―――)

 白い指が何かをこらえるように床に爪をたて、カリリと小さな音をたてた。犬夜叉が新しい水を含みなおして、いっそうその銀色の頭を引き寄せる。

 たとえばどれほど親しくとも他人の弥勒に口移しせよといわれたら、弥勒には気の毒ながら犬夜叉はためらったに違いない。あれほどまでに憎みあい争いあう仲であるのに、こうしたとき突然口移しもためらわず、また相手もおとなしくそれを受け入れるような親密な行動がとれるのは、やはりその魂の奥底に隠れたどこかで互いを兄であり、弟と思いあっているからというより他はなかった。

 もろく危うい、だが不思議な兄弟の絆―――言葉にならないその絆は、冷たい水のひとすくいの形をとって、兄弟のくちびるからくちびるへと流れこむ。こぼれたしずくが殺生丸の白いうなじを伝って落ちる。

 震える唇がふれあったその瞬間の、全身がしびれるようなあの感触に、弟が何を思い、兄はどう感じたか、もとより推しはかるすべはなかったのだが。

 (なんとなんと、「暁館」アキミさまよりとびきり素敵な挿絵をいただいてしまいました!大感謝!!)




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