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あにおとうと :其の十三

 ふりかえると、もう殺気は影も形もなかった。まるで鏡のような湖水のおもてさながら、先ほどの妖気は嘘のように消え去り、殺生丸はそっけなくこちらに背を向けて静かに
そこに横たわっていて、もはや鋼牙をひるませたあの凄まじい悍気はかけらも感じられなかった。

「・・・真の妖怪ってのはいつも心は醒めたものだというが、まあ」

 やれやれ、という弥勒の口調に、こちらも安堵のあまりいささか脱力した感じの珊瑚がつぶやいた。

「頭に血がのぼるってことはないのかな。それともあの兄上の性格?」
「たぶん、両方でしょうな」
「この次、鋼牙が殺生丸に会うようなことになったら、今度こそ殺し合いになると思う?」
「いや、傷が快復しさえすれば鋼牙はとうてい殺生丸の敵ではない。勘のいい鋼牙のこと、そうそう迂闊に殺生丸に近づいたりはせんでしょう」
「鋼牙もああ見えてけっこう強いんだけどね。手も出さないで追い払うなんて、やっぱり格が違うってことなのか」
「そうですな。ま、今回は鋼牙の位負けということで」

 緊張のあまり硬直してしまったような腕を伸ばしながら弥勒は云った。

「ともかくあの兄上の迫力にはかないませんよ」
「うん、あたし、もうほとんど腰が抜けそうになっちゃった」
「私は抜けましたな、完全に」

 とぼけた顔で弥勒は言った。

「雲母もそうみたい。雲母、雲母、降りておいで、もう大丈夫だよ」

 その気の毒な感じやすい雲母は殺生丸の逆鱗の余波をまともに浴びせられて、九つあるという化け猫の命のあらんかぎり、近くの一番高い木のてっぺんまで逃げ登ってしまい、珊瑚がどうなだめすかしてもおりてくる気配を見せなかった。

(鋼牙もよくがんばりましたよ。まあ、あの場合としてはね)

 弥勒はちょっと笑った。それから珊瑚に手を貸そうと歩き出した。

 こちらでは、鋼牙の姿を見送ったまま、かごめがいくぶん気づまりそうに犬夜叉に話しかけていた。

「・・・・あの、ごめんね、犬夜叉、鋼牙くんにその、」
「いいんだ」

 当惑したように話し出したかごめを犬夜叉はさえぎった。

「わかってる。ああでもしなきゃあのバカを追っ払えなかったってことはな」
「殺生丸、ほんとに怒ってたみたい。あの最後の妖気を感じたとき、あたしほんとに
生きた心地がしなかったわ。背筋が寒くなるってああいうことを言うのね」

「おれにはとうてい止められなかったろう。殺生丸は、本気で奴を殺す気だった」

 犬夜叉がつぶやいた。 

「ありがとよ、かごめ。もしお前が命をまとに割り込んでくれなかったら、殺生丸は
まちがいなく鋼牙を殺してたろう。あのおめでたい鋼牙の野郎は、自分がどんなに危ない橋をわたったかなんぞ一生気づかねえんだろうけどな」
「殺生丸、どうしてあんなふうに逆上したのかしら。いつもはあんなに冷静なのに」
「―――おれにはわかるよ。殺生丸が毛を逆立てた理由はな」

 ぽつりと犬夜叉は云った。その声の調子にと胸を突かれて、かごめは相手の横顔を見た。

「犬夜叉――」
「何度もそういうことがあった」

 空を見上げたまま、静かに犬夜叉は続けた。

「お前がこわがって悲鳴をあげてて、なのにこっちはケガしてて自分の体も思うように動かねえ、武器も思うように振るえねえ。動かねえ体へのあせり、守りきれないかもしれねえ不安、痛みでいっそうイライラして警戒して気が荒くなって、お前に近づこうとする奴は誰であろうと殺してやるって気になるんだ」

「・・・・・・・犬夜叉・・・・」

「鋼牙にはわからねえだろうよ。経験したことのある男でなけりゃわからねえ。かよわくて小さくて自分だけを頼りにしてるひよわな連れが、こわがって悲鳴をあげてる、そういうときの自分がどんなに凶暴な気分になるか。その悲鳴を止めさせるだけのためにどんなことでもしようってくらい攻撃的な気持ちになるか。そりゃ殺生丸は完全な妖怪だから、おれみたいにイラついたり、頭に血が昇ったりはしねえんだろうが」
「・・・」
「けど、おれにはわかる。あのとき殺生丸が牙をむいた気持ち――あのりんって娘が悲鳴をあげてしがみついたときのあいつの凄い殺気の理由はな」
「・・・殺生丸は強いから、きっとこれが初めての経験なのかもしれないけど」

 かごめも空を見上げた。

「妖怪も半妖も感じることは一緒なんだわ。殺生丸は知らないのよ、犬夜叉がそんなふうに自分の気持ちを理解してるなんてことは」
「べつに、理解しようなんて思っちゃいねー」

 犬夜叉はつんとそっぽを向いた。

「ただ、似たようこともあるっつーだけのこった」
「そうね―――」

(不思議ね・・・殺生丸があんなふうに本気で殺気立つところを初めて見たわ。あの鬼たちと戦ったとき、自分自身のためでさえ、あんなふうに殺気走ったりはしなかったのに)

 殺生丸が天生牙を持てる理由の一端が、ほんのわずかだが、のぞけるような気がした。

「犬夜叉、あのね――」

 かごめが言いかけたときだった。




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