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あにおとうと :其の十二

 殺生丸の体がゆるやかに、だが確実な殺気をはらんで獲物のほうに向けられてゆく。その手が不気味な緩慢さで腰の剣のつかに伸びていくのが見える。蒼白いおもての中でひたいの三日月が妖しく浮かび上がり、殺気をおびて燃えあがる黄金の眼は一瞬も獲物から離れず、その上に据えられたままだ。

(・・・鋼牙)

 鉄砕牙の柄にかけた犬夜叉の手のひらに冷たい汗がにじみ出た。

 弱者が強者の餌食になるのはもとより妖怪の常、殺生丸ほどの大妖怪でも、少し弱みを見せれば襲われるほどなこの弱肉強食の世界で、うかつにも敵の真の妖力を甘くみてこの事態を招いたのは鋼牙の不覚というよりほかはない。だが、このまま鋼牙を見殺しにして兄の手にかけさせるのだけは弟は止めたかった。

 かごめをめぐる恋敵といいつつも、ときにはそのかごめを守って共に戦いもし、同じ敵も持ち、口ばかりはやかましく喧嘩しても、本気で殺しあうような気になったことは一度もない相手である。今も兄の手にかけられるのを座して見過ごすようなことは到底できなかった。鋼牙はおそらくは半妖の犬夜叉が妖怪の中に生まれて初めて持つことのできた、対等のケンカ仲間であり、友人なのだった。

 しかしまた、殺生丸は我が兄―――この世にただ一人の血を分けた兄であった。しかもその兄は、たった今、自分の手で思いがけぬ深傷を負わせてしまったばかりの身であった。

(殺生丸―――)

 その心にある負い目が、犬夜叉にいつもの大胆な行動を取ることをためらわせた。鋼牙も生粋の妖怪の子、かなわぬまでも殺生丸に反撃しないはずはない。妖力の強さと気迫で勝るとはいえ、今の体で鋼牙の一撃をよけそこねる可能性もないとはいえず、今の殺生丸の傷ついた身には、それは致命的な打撃にならぬともかぎらない。

 いずれをかばい、いずれをおさえるとも判断はつかぬ。犬夜叉は鋼牙を死なせたくなかった。これ以上兄を傷つけたくなかった。だが殺生丸に矛をおさめさせる方法は何も思いつかなかった。

(殺生丸、頼む、よせ、そいつを殺すな、殺すんじゃねえ、殺生丸!)

 しがみついた少女の喉から再び小さな泣き声が聞こえ、犬夜叉の背に緊張が走った。殺生丸の体からたちのぼる殺気がひときわ凄みを増して、その手が剣のつかにふれかかる。
もはやとどめようもなく両者一触即発と見えた、その瞬間であった。


「やめて、殺生丸、やめて、お願い!」

 圧倒的な殺生丸の異様な気迫に完全に凍りついた空気の中で、あわやというその瞬間に、ただ一人―――ついにその場の呪縛を破った少女がいきなり飛び出して間に割って入った!

 「かごめ!」
 「かごめさま!」

 その一瞬の隙で十分であった。次の瞬間、鋼牙は脱兎の如くその場を飛び出し、土ぼこりを舞い上げて破れた築地塀のはるか向こうへと飛びすさった。

 間一髪のところであった。かろうじて殺生丸の手の届かないところへ身を移した鋼牙のすがたを、殺生丸はなおも目で追ったが、その手は紙一重のところで剣の柄の手前で止まっていた。純白の毛皮の様子はなおもさめやらぬ怒りを示していたが、さしも無鉄砲な妖狼の若長をもたじろがせた凄まじい殺気はいくぶん減じて、怒りに逆だった長い銀髪はようやくしずまり、再び背に流れおちていくのが見えた。
 犬夜叉はしびれた手をひきはがすようにして、刀の柄から離した。


「ちぇっ、俺は何もしてねえだろうが、何を毛さかだててやがる」

 負け惜しみまじりに鋼牙がぼやいた。さしも恐れを知らぬ剛胆な鋼牙も今はそれ以上のことが言えないようだった。連れの狼たちは雲を霞と逃げ散って、もう一匹の姿も見えはせぬ。

 このすきに鋼牙を追い返さねば次の機会はない。犬夜叉が一歩踏み出したとたん、横合いからいきなりスカートのすそをヒラつかせてかごめが割り込んだので、犬夜叉は面食らって足をとめた。

「鋼牙くうん、さっきの妖怪たちってばひどいのよーお」
「な、なんだ、かごめ」

「かごめのやつ、何いきなり甘えた声出しやがって、」

 怒った犬夜叉が何かいいかけたのを弥勒が引き戻した。

(しっ、黙って、かごめさまは何か考えがあるのです)

「なんだよ、かごめ、何か聞いてほしいのか」

 たった今の騒ぎが嘘のように、けろりとして鋼牙は言った。犬夜叉はあまりの変わり身の早さに腹を立てたが、かごめはかまわずなおも鋼牙相手に猛然とまくしたてた。


「そうなの、さっきあたしたちを襲った鬼たちったらひどいのよ、このあたしより
 殺生丸のほうが千倍も美人で比べ物にならないくらい綺麗だなんて言ったのよぉ」

「なんだとう」

「その上、あたしのこと胸ペシャでやせっぽちのトリのガラだなんて言うのよ、
 ひどいと思わなーい?」

「なにぃ、本当か。お前みたいないい女つかまえてそんなこと言うたあ許せねえ」
「殺生丸のほうがずーーーーっと肌も白くて髪もきれいで、身のこなしも優雅で華やか
 であでやかでおしゃれで色っぽくて絶世の美人で、あたしは死ぬほどがさつで不細工
 だなんて言ったのよぉ」


(――そこまで云ってねえ)

 一行は全員そう思ったが、鋼牙はかごめの誘いに簡単にのって、たちまち腹を立てた。

「気にすんな、かごめ、お前はあんな生ッちろい高慢ちきなすかした野郎なんかとは
 比べものにならねえくらい可愛いぜ」


 (――むちゃくちゃ云っとるな)
 (しっ、七宝、黙って)

「だいたい女のお前を男と比べること自体許せねえ。犬ッころのやつ取り逃がしたのか、
 そいつを」

「そうなの、その鬼の生き残りの一匹を逃がしちゃったの、もう許せなーい」
「心配するんじゃねえ、かごめ、かわいいお前のために、その変態妖怪をとっつかま
 えて二度とふざけた口利けねえようギッタギタに叩きのめしてやるぜ。おう、犬ッ
 ころ」


 鋼牙はふりかえった。

「てめえのやり損ねた仕事をちょっくら片付けてくるからな。俺が戻ってくるまでかごめ
 をちゃんと守っとけよ。じゃあな、かごめ」

「あっ、このやろっ、てめえ、さんざかき回しておいて詫びも言わねえで行っちまう気
 かッ、このくそったれ狼が!」


 犬夜叉が憤激して飛びかかったが、こういうときの鋼牙の逃げ足は速い。わめく相手を尻目にもはや長居は無用とばかり鋼牙は犬夜叉の爪を身軽くかわして、つむじ風と共にたちまち彼方へと走り去った。

「ふん、あばよ!犬っころ」
「ふざけんな、この痩せ狼!」

 彼方に消え去る竜巻のほうから、小さな叫び声が返ってきた。 

「かごめをあずけたからなーっ、大事にしろよーっ」
「二度と来るんじゃねーッ、ばかやろーッ




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