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淡雪の記憶 :其の一


 若き殺生丸の資質はすでに明らかとなっていたので、父たる犬の大将はその妖力の開花をさして急ぐつもりはなかった。しかし息子のほうはどうやらそれにしびれを切らしているらしいこともまた明らかであった。

「父上」

「これよ」

「妖力継承の儀、どうでも聞いてはもらえませぬか」

「だから、そうあせるなと申しておる。別に急ぐ必要もあるまいが」

「・・・豹猫族との大戦さの折、私は加わることがかないませんでした」

「またそういうことを云う、あの時はそなたはまだほんのネンネではないか。あのような危険ないくさに可愛い一粒種のこなたをそう軽々に連れてゆくことなどできたと思うか」

「・・・ネンネ」

「いや、まあ、その、なに、言葉のあやよ、わかっておる、そうこわい顔をするなというのに」

 一刻もはやく自らの妖力の完全さを得たい殺生丸には、自分の開花を待てという父の言い分がまだるっこしくてならず、父に妖力継承の儀を行ってくれるよう頼んでは、まだ早いという父との間で、このような言い合いが続いているのだった。

 その豹猫族との戦いのときは、殺生丸は別段すねて留守を守れという父の言いつけにそむくようなことはしなかったが、戦いが終わるや否や、一人でとっとと落ち武者狩りに出かけてしまい、しばらく帰ってもこなかったので、父は内心冷や汗をかいたものであった。まだかなりの手ごわい残党も残っていたからだが、息子のほうはそんなことは気にも留めず、西に残っていた残りの豹猫族をかたっぱしからことごとく屠って、あとには骨も残らぬという荒っぽさであった。御曹司の手際をほめられて父は悪い気はしなかったが、それにしても不羈の気性は矯められぬ。

「のう、殺生丸」

 かわいくてならぬ一人息子なのである。早く一人前になりたいという気持ちはわからぬではない。望みをかなえてやりたくも思ったが、同時に冷めた妖怪の心はわが子相手といえども情に溺れて狎れあうことを拒む。父はまた言った。

「父がどうでも許さぬといったらどうする」

「・・・・・・・・」

 天性、誇りたかく、容易なことではなつかぬ気性である。下手に出て父の機嫌をとるなどということは思いもせぬ。殺生丸の表情をみて父は笑った。

「弱ったのう。この父と一戦交えてでも望みを通したいという顔つきじゃな。まったく、どうしたものか」

「父上」

「まだ早い」

「父上!」

「もう言うな、早すぎる」

 答えと同時に飛びかかった殺生丸をかわして父はひらりと後ろへ飛びすさった。

「早すぎたりはいたしませぬ!」

「困ったやつ、我儘もほどほどにせい」

 欄干から庭へ、身軽に動く父を追って、殺生丸が爪を光らせる。一瞬早く飛び上がった父がたった今いた橋が一撃で叩き壊されて音立てて落ち、猛烈な水しぶきと共に鯉たちが跳ね上がった。

「おっと、これよ、」

 襲いかかる毒の爪に石灯篭が次々ジュッと煙を立てて溶け落ちた。父の体は数尺もとんで軽々と息子の爪をかわし、彼方の築山へとふわと降り立った。間髪を入れず殺生丸の敏捷な身が拳を打ち込もうとする。易々とよけた父のあとに築山は土くれとなって宙に消し飛び、植わった松や梅の木が根扱ぎにされて辺りへ飛び散って庭園はさんざんな有様となった。優雅な動きで息子の攻撃を避けながら、父は嘆いた。

「やれやれ、今年はここで観梅の宴はあきらめるしかなさそうだな。うぐいすに我が宿はと問われなば、どう答えていいものやら」

 殺生丸の動きは恐ろしいばかりに速く、身のこなしはしなやかであったが、しかし父の動きの素早さには到底及ばす、爪は髪をかすりもしなかった。

「あ、これ、その紅梅は一番枝ぶりがよかったものを、ああ、もう手のつけようがない」

「この殺生丸をなぶるか、父上!」

 点在する岩が叩き割られて音たてて吹っ飛び、花木もろとも土くれが吹き飛ばされて泥まみれの大穴が開いた。

「ああ、もう、そちらのしだれ桜も山吹も全滅か、庭中掘っくり返しおって、どうするつもりじゃ」

「おのれ、これ以上からかうと、父上といえどもただおかぬ!」

「そう血相かえて牙をむくなというのに」 

 てんで相手になりはせぬ。怒った殺生丸が自らの手でたった今開けた大穴のふちから飛びのこうとしたときだった。

「っ!」

 ふいに息子が頭上を振り仰いだときにはもう遅く、その右腕はぐいと背中へねじ上げられ、ほっそりした体はうつ伏せのまま、いきなりばさと地面へ叩きつけられた。父が片膝立てて背中にのしかかっていた。その手はごく軽く大して力も入っているようには見えなかったが、父が少し足に力を入れると殺生丸の体は苦痛にしなった。

「あっ、痛っ、ウッ・・・」

「面倒をかけおって」

 背をおさえて片手で腕をねじあげたまま、もう片方の手で後ろからあごをぐいと持ち上げて、父は言った。

「この話はまたあとじゃ。こなたと遊んでいると日が暮れてしまう」

「・・・どうでも、わが願いは」

「くどい!」

 優しく甘い父であっても素顔は獰猛な化け犬の妖怪である。逆らわれて父の目が赤く光った。

「・・・・あうっ!!」

 うつ伏せにおさえこまれたまま、いきなり容赦なくひねり上げられた腕から、肩口にまで激痛が走って殺生丸は喘いだ。

「勝手をいうとしまいにこの細首を引き抜くぞ」

「ウ・・ア・・・・」

 無理やりにそらされた殺生丸の白いのどからかすれたうめきが洩れる。白皙が苦痛にゆがみ、額に汗がにじんだ。

「あ・・・・・あ・・・・」

「おとなしく引き下がるが、それともこの腕をへし折られるか、どちらを選ぶ、殺生丸」

「・・・望みを、お聞き入れあるまでは、引き、下がりませぬ・・・あウッ」

 悲鳴とともにミシと不気味な音がして、右腕がだらりと垂れ下がった。折られた腕の痛みに半ば失神して殺生丸の銀白色の頭がうつ伏せに倒れこむ。

「う・・・」

「強情我慢にもほどがある」

 気を失った息子のほっそりした体を横抱きに抱き上げながら、父大将は閉口したようにつぶやいた。

「まったく我が子ながら手に負えぬわ。いちいち腕まで折らねば黙らせもならんとは、少しは父の気持ちも考えよ」

 腕の中で白い袂を垂らしたまま、殺生丸はぐったりと目を閉じている。西国の化け犬の一族は皆美貌であったが、とりわけ殺生丸の麗質は早くからその妖力の強さとともにひときわ目立った。

(こうして眼を閉じていると、いずれの美姫か天女の裔とみまごうばかりだが)

 先ほど自分を襲った爪の猛禽さながらの悍気を思い出して、父は苦笑した。折れた腕は多少痛みは残ろうが、夜半には癒えるだろう。夜はどこぞの結界へでも閉じ込めておかねば、あとで怒って寝首を掻きに来ないとも限らない。

(まあいい、来たらそのときはそのときのことだ)

 剛腹な父大将はそう思い決めて、殺生丸の体を抱いたままふわりと宙へ舞い上がった。

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