そろそろ丑の刻にも差しかかろうかという頃合いであった。来るかと思って待っていたが、息子はどうやら姿をあらわしそうもない。
(やれやれ、来ぬな、どうやら)
余人の入らぬ深い結界の奥で、褥に体を伸ばして一人酒を酌みながら、犬の大将はゆったりとくつろいでいた。
(やんちゃ坊主め、少しは頭が冷えたか)
手づから結い上げた髪に挿した簪を抜き、元結をほどくと、あでやかな銀白色の髪が滝のように引き緊まった背になだれ落ちる。頭をひとふりして悩ましげに丈なす銀髪をかきあげると、父は紙燭の灯を消そうと身体を起こした。
「・・・・・・・・・」
ふっと火は吹き消されて、つかの間寝所は真っ暗な闇におおわれる。と、その時、す、と音もなく忍び入る白い影が、起き直った大将の背後にすいと入りこんだ。
(やったか?!)
殺生丸が爪を首に突きつけようと手をあげた刹那、
「どうも、父の後ろをとるにはちと経験不足のようじゃな、殺生丸」
背中からのどかな声がして、急に結界の中はほんのりと明るくなった。ハッとなってふりむいた殺生丸の後ろに、華麗な螺鈿の屏風を背にして父がのんびり寝そべっていた。
「・・・父上」
「どうしたな、殺生丸。この夜更けに先触れもなしに父の許を訪れるとは」
「・・・まったく腹の立つことと申せば、一体いつになったらこの殺生丸、父上の背中をとるまでに妖力が強まることやら」
心底からくちおしげに唇をかんで殺生丸は云った。父は苦笑した。
「まあそう地団駄ふんでくやしがらんでもよい。こなたに限らず、この父の後ろをとれるような妖怪はあまりおらぬよ」
「他の妖怪のことなど知ったことではありませぬ!」
激するあまり、ほとんど涙を浮かべて殺生丸は言いはなった。
「なにゆえ父上は、この殺生丸に・・・!」
「儀式を拒むか、と申すのか」
「・・・っ」
「―――弱ったのう」
常日頃、そうたやすく感情を露わにするような息子ではないのである。年に比して少し冷静過ぎると思えるくらいだ。その冷静な殺生丸にしてこの激しように、さすがの父もいささか困惑して体を起こした。殺生丸は体を震わせたなり、くちびるをかんで横を向いている。父は困ったようにその背に手を伸ばしたが、息子は怒ったようにその手を振り払った。
「・・・殺生丸」
「・・・・」
「―――殺生丸、これよ」
「・・・・・・・」
「・・馬鹿が、泣くようなことではあるまい」
背中からそっと抱きかかえてやりながら、父は優しく云った。抱きすくめられながら、殺生丸は涙をこらえようと歯を食いしばった。
「誇りたかいそなたが、自らの弱さに耐えられぬことはわしも知っている。しかし、そう一足飛びに強くなればいいというものではない。今とても決して他の妖怪どもに引けをとるわけではあるまいが」
腕の中の息子は返事もせぬまま、ただ肩を震わせている。
「こなたの気持ちはわかっておる。父のほうが切なくなろうが、もう泣くな」
「・・・泣いてなど」
「殺生丸」
「・・・・・・・・父上は」
父の腕の中でうつむいたまま、殺生丸はつぶやいた。
「父上は、この殺生丸に何ほどの期待もしてはおられぬのか。最強の妖怪たらんとするわが望みを取るに足らぬ下らぬものと思し召すか。この殺生丸にはそれだけの強さを持つ資格などないと思っておいでなのか」
「何を申すか、ばかなことを」
「では何故―――では、何故」
「何故と申して」
説き伏せる言葉の種も切れて、父大将は腕の中の相手を見おろした。
滑らかな絹さながらの白髪を一つにたばね、優婉な白い紗の夜衣からたきしめられた空薫物の香がかすかに漂ってくる。半ば伏せたまぶたに艶冶な紅をひとすじ刷いて、肩を震わせているその姿はあてになまめいて、父の眼にも悩ましげに映った。こんな薄化粧に肌を透かせた紗のなりで来たとあるからは、内心父を押し倒してもと覚悟の上で来たに違いない。
「継承の儀が何をするかはわかっていようが、こなたの色仕掛けの才のほうはあまり見込みがないのう」
父がふいに手をあげて自分のうなじに触れ、髪をたばねた朱房の組紐をさらりと解いたので、殺生丸は顔を上げた。雪のような銀髪が白く光ってその肩にこぼれおちた。
「そういうときにはもそっと衣紋を抜いて、結い髪くずれて乱れたさまで迫るものよ。そんな生娘のような固いなりで来るものではない」
おかしそうに父は云った。
「わかっているのか、殺生丸。この儀式を受けるということは、実際にはこの父に身を任せるというも同じことぞ」
「・・・・はい」
「妖力継承といい伝わってはおるが、実際にはこの身より妖力を伝えるのではない。これはいってみれば、殻を押し開いて、潜在的なその身に備わった妖力を完全に解放させるというものなのだ」
父は言った。
「若いこなたには早すぎると言うたのもその謂いよ。そなたのいわば未熟な殻を強引にこじあけて体を開かせるということになる」
「・・・・・・・・」
「そなたには必要な力はすべてそなわっておる。時がくればおのずから妖力は解放に向かうはず。もう少し待たぬか」
「待てと申して、いつまで待てと仰せか。私はもう子供ではありませぬ」
情ごわく殺生丸はいいつのった。
「どうでも望むか」
「言うにや及ぶ!」
言い放ったとたん、ふいに父が体を起こして殺生丸の体を押し倒したと思うと、声も出ぬその体を荒々しく己が体の下に巻き込んだ。
「よかろう」
父大将はしずかに言った。
「継承の儀を行ってつかわす。殺生丸よ、後に悔ゆるな」
「いつお始め下さるおつもりか」
あおのいてなお、ひるまぬ息子の視線にあって、父は微笑した。
「待つまでもない、たった今から!」
突然結界は白炎さながらまばゆい白に輝いた。二人の髪が妖しく揺らぎたち、からみあう。華麗な芙蓉の帳にも似て幾重にも結んだ結界の奥深く、やがて乱れてなまめく伽羅の香が内よりわずかにこぼれ出でて、妖気はいつしかあたりにたちこめる。新月の夜はいよいよ深い。