言わで思ふぞ:其の一
それはある五月の午後のこと、犬夜叉と殺生丸が同じ獲物を争ってぶつかっている最中に起こったのであった。突然見舞われたこの災厄をいったいどのように言い表せばよいものか。
弥勒は時おり思い出す。あの縛妖索の一夜を・・・
* * *
「邪魔だ、犬夜叉!」
「殺生丸、きさま!」
飛びのきざま妖怪の体をたたき斬って、犬夜叉が怒鳴った。
「どうしていちいち邪魔をしやがる!」
「だれが貴様の用などかまうか、鉄砕牙なしでは何もできぬ半妖が!」
「ふざけんな、てめえっ」
犬夜叉の金色の目が、かっと怒りに燃え上がった。
「どうしててめえは鉄砕牙を欲しがるんだ。こいつはおれのもんだ。親父がおれに残したたった一つの形見なんだぞ!てめえは、親父の顔も声も知ってるじゃねえか。親父と話したことがあるじゃねえか。親父が闘うところを、剣をふるって見せるその姿を見てるじゃねえか。おれには」
腕白なきかん気の少年の表情に隠された、真の痛みが隠し切れずその声に出た。
「おれには何にもねえ、親父をしのぶよすがと言っちゃ、おれ自身とこの鉄砕牙しかありゃしないんだ。それなのにこの上おれから鉄砕牙まで取り上げようってのか。そんなにおれが憎いか。おれが人間の血をひいてるのがそんなに許せないか。そんなに半妖のおれが鉄砕牙を持ってるのが我慢ならないのか。お前は親父の何もかも知ってるくせに、おれからたった一つの親父の形見まで取り上げようっていうのか!」
「黙れ!」
殺生丸の声もまた、弟に劣らず深い痛みを秘め隠して、激情のままにほとばしった。
「きさまに何がわかる!父上のことなど何一つ知りもせぬくせに!」
(顔も知らぬ、声も知らぬだと!貴様に何がわかる。父上はきさまのために全てを投じた、父上はおまえを救うために残りわずかな生命のすべてを賭けて)
(おまえは父上の与える最上のものを受け取った、父上の心、父上の牙、父上の命、そのすべてを)
(父上は、それほどまでにおまえを愛した、最強の二剣を求める私の望みをはねつけ、鉄砕牙をおまえに与え、おまえを生き延びさせようと)
(鉄砕牙以外何もないだと!すべてを受け取っておきながら、父上の命までも受け取っておきながら――)
(犬夜叉、何もかもきさまが―――きさまが!)
殺生丸の美しいおもてが苦悩にくもった。
「ちくしょうッ、てめえなんか!」
「何も知らぬ半妖が!」
妖怪どもを切り裂きながら、互いに獲物を奪い合って譲らぬ兄弟の刀がひらめいたとき、突如、天空にピカリと不気味な何かが光った。
(!)
いち早く気づいたのは、殺生丸だけか。気づかぬ犬夜叉が鉄砕牙を振り下ろしてその下にいた妖怪を真っ二つにしようと突っ込んだ。
(まさか、あれは)
(犬夜叉!)
絶望的なその瞬間に、殺生丸の脳裏にひらめいたのは、おのが手にかけると誓った半妖の弟のあまりにもはかなくあっけない死か、それともその弟を生かすためにおのが命をかけた今は亡き父への想いか。
「そこをどけ、犬夜叉!」
「うるせえっ、これはおれの獲物だ、てめえこそどきやがれーっ」
「この馬鹿が!」
「犬夜叉ーッ」
かごめが叫んだとき、雪のように白い体が彗星のように飛び込んできて、犬夜叉の赤い衣を体ごと突き飛ばした!
真っ白な髪が突風に吹かれるように吹きなびいた瞬間、天から雷撃がとどろいて、たった今犬夜叉がいた場所にいた殺生丸の体が稲妻に打たれたように跳ね上がり、きらめく光の縄めいたものがその首に巻きつくや、白い姿はもんどり打っていきなりドサと地面に叩きつけられた!
「せ、殺生丸ッ、どうしやがったっ」
驚愕する犬夜叉の前で、兄の体は文字通り激痛にそりかえり、殺生丸は剣を投げ捨ててからみついた綱をふりほどこうと荒れ狂った。その眼が怒りに赤く燃える。
「殺生丸?!」
怒りの形相も物凄くその口元がバリバリと耳まで引き裂け、その体はたちまち本性たる巨大な犬妖怪の姿をあらわした。首筋に前足に金色の綱を巻きつけたまま、逆鱗すさまじく純白の化け犬は牙をむき出し、頭を振り上げて咆哮した。足元にいた妖怪たちが悲鳴をあげて逃げ散った。
「な、何だあれはッ」
弥勒が驚愕の声をあげる。見上げる恐ろしげな化け犬の首から残った右の前足をつなぐように、一本の綱がギリギリと巻きついているのが見える。殺生丸が猛り狂ってその綱に噛みつき、引きちぎろうと頭をふりあげたが、とたんに綱がキラリと光って首と前足の間がピンと引っ張られ、化け犬は一声絶叫して体ごとどうと横倒しに倒れこんだ。
「ど、どうなってるんだ、殺生丸が」
倒れこんだまま、殺生丸はなおももがいて凄まじく暴れ狂い、前足にくいこんだ綱を食い切ろうと牙をたてたが、妖しい綱がまたも光るとその体からたちのぼる妖気がふいに綱に吸い込まれ、ありうべからざることだが化け犬の本性の変化は解けて、殺生丸の白い体が人間のそれに立ち戻ってその場に投げ出されるのが見えた。
あまりのことに絶句して声も出ぬ仲間たちをおいて、犬夜叉がそのほうへと駆け寄った。
「殺生丸ッ、どうし・・・」
「いかん、犬夜叉さま、触れてはならーんっ」
今まさにその体にふれようとしたとき、辛くも飛び出した冥加の叫び声があたりを破った。
「い、いかん、さわってはならん、犬夜叉さま、命取りじゃ、さわってはならん」
「冥加じい!」
あやうく足をとめた犬夜叉の眼前で、倒れこんだままの殺生丸はのどに食い込む綱をむしりとろうと、なおも狂おしく身もだえした。近づけぬまま犬夜叉が叫んだ。
「殺生丸、どうしやがった、何だその首の綱はッ」
「それにさわるな、この間抜け」
激痛に歯を食いしばった隙間から、かすれ声で殺生丸がののしった。
「な、なんだと」
犬夜叉が眉を逆立てたが、またあの綱がキリリと体を締め付けて、目の前の兄の体がたちまち痙攣するようにそりかえったので、そのあまりのすさまじさに後ろへ下がった。
「ど、どうしちまったんだ、いったい、おい冥加じいっ」
「縛妖索じゃ、犬夜叉さま」
「ば、くようさくぅ?何だそれは」
「その昔、天界にて妖怪を捕えるために使われたという妖しの綱。その綱が自ら妖力を持ち、邪気を帯びて地上をさまようておるのじゃ。百年に一度、縛妖索は地上に現れ、たまたまその場にいた妖怪をからめとり、その妖気をことごとく吸い取って消えてしまうという。殺生丸さまは縛妖索にからめとられたのじゃ、見よ、手首の印が薄れておる!」
「・・・・・!」
冥加じいの言うとおり、倒れこんだままの殺生丸の全身にあやしい霊気に似たものがうっすらと巻きつき、長い髪は無残に乱れて地面に広がって、その手首に頬に刻まれた薄紅色がわずかに色あせてきていた。弥勒がかたわらに駆け寄ってひざまずいた。かごめがそのわきに走りよった。
「何が起こったんだ、いったい・・・」
「私には殺生丸がお前にそこをどけと叫んでいたのが聞こえました。そのあといきなり飛び込んできてお前を突き飛ばしたとたん、その縛妖索とやらにからめとられた」
「殺生丸が、おれをかばったってえのか」
「わかりませんが、おそらく」
弥勒が言った。冥加がうなずいた。
「あの場で縛妖索にいち早く気づいたのは兄君だけじゃった。とっさに身代わりになることで犬夜叉さまを逃がしたのじゃろう」
「なんで殺生丸の野郎がそんなことをする、奴がおれをかばったりするわけがねえ!」
「犬夜叉、殺生丸が!」
言い争っている背後でかごめの悲鳴が聞こえ、ふりむくとあの綱がまたぞっとするような金色を帯びて光り、苦しみもがく白い体が声もなくのけぞって、狂ったように七転八倒する銀色の髪が地面に波打つのが見えた。
「殺生丸!」
「いかん、犬夜叉さまはそれにさわっちゃならん」
「こんなもん、おれが鉄砕牙で」
「ダメじゃ、犬夜叉さま」
「うるせえっ、何で止めやがる、」
「さわれば犬夜叉さまも縛妖索の妖力にからめとられてしまいますぞ」
必死に引きとめようと跳びはねながら冥加が怒鳴った。
「どういうことなの、冥加じいちゃん」
「縛妖索は文字通り妖怪を捕らえる綱、半妖とはいえ犬夜叉さまでも捕らえられれば容赦はない。いや、人間の血をひく犬夜叉さまの妖力ではとうていかなわぬ、おそらく巻きつかれたとたんに首をねじ切られてしまうじゃろう」
「それじゃ、殺生丸はとっさにそれを察して」
「間違いない。縛妖索は突然あらわれて妖怪をとらえてしまう、これは天災のようなもので、妖力が強かろうと弱かろうと現れたらよけるということができないのじゃ」
「今の犬夜叉のように、身代わりがなければ、ということですか」
弥勒が厳しい表情で言った。とそこで殺生丸が刀をついてよろめきながら半身を起こしかけたので、みなが愕然としてそちらを見た。
「せ、殺生丸・・」
銀色の髪がみだれてひたいにかかり、その顔色はいつにもまして蒼白だった。
「てめえ、なんだってこんなッ」
「さがっていろ、私に、さわるな」
「殺生丸!」
「馬鹿が、下がれというのがわからぬのか、アウッ!」
殺生丸が天生牙によりかかって苦痛にあえぎながら言い切ったとたん、その抵抗を嘲笑うかのように、とつぜん縛妖索が胸の悪くなるような邪悪な黄金にきらめいて、さしも誇りたかい兄のくちびるから、思わず耳をふさぎたくなるような、激痛にあえぐ悲鳴がほとばしった。
「殺生丸ッ」
たまらず体は地面に倒れこみ、もがき苦しむ姿から放射される殺生丸の感じている苦痛が周囲にも電気のように伝わって、人間たちは本能的にとびのき、雲母が全身の毛を逆立てた。
天生牙が怒りにふるえ、主を守ろうと青く光った。
「妖怪が生きながら妖力を吸い取られるほど残酷きわまる無残な苦しみはない、いかん、これは殺生丸さまといえど、このままでは」
冥加が汗をかきながら云った。
「このままだとどうなる」
その姿から目を離せぬまま、犬夜叉が訊いた。
「妖怪の命の源はその妖力――妖力が吸い尽くされれば、妖怪は死ぬ」
「殺生丸が・・・死ぬ?!」
(ばかな)
「妖怪を捕らえる綱なら、人間にはさわれるんだろ?ならあたしたち人間の手なら」
珊瑚が隠し刀に手をかける。冥加が首をふった。
「たしかに人間には害をなさんが、ただの刀では切ることはできん」
「ただの刀じゃだめっていうなら、じゃあ切れる刀はあるんだな、どこだ、それは、どこにあるッ」
かみつくような勢いで犬夜叉が問いつめたので、冥加は肩から転げ落ちて草むらに飛びこんだ。
「早く言え、早くっ」
あわやふみつぶされそうになってジタバタしながら、冥加じいは、
「こ、ここから西に行った地に霊峰を背にした古い大きな神宮があり、そこには三柱の神とその地を守護する霊剣が祀られておる。その名を天羽々斬の剣という」
「あめの、はばきりのつるぎ・・・」
「そうじゃ。むかし妖蛇を斬ってその宮に奉じられておるその剣でなくては、縛妖索は切れん。ただし、半妖はむろん、人間でもその剣にうかと手をふれることはできんぞ。なにしろ古えより伝わる霊気を帯びた恐るべき霊刀じゃ 、そう簡単にはいかん」
「・・・つっ」
突然、またうなじと手首に巻きついた部分が不気味な光を放ち、辛うじて肘をついて身を起こしかけた殺生丸がひきつけを起こしたように凄まじい苦悶に体をよじった。
「う・・・・」
「ひ、ひどい」
「あの綱、まるで、捕らえた体をおもちゃにしてもてあそんでるみたい」
珊瑚がつぶやいた。たしかにその妖しい金色の光には、何かしら邪悪な意志を持っているような気がかごめにも感じられた。
「いかん、殺生丸さま、そう暴れては、妖力の消耗が早くなりますぞ、暴れてはいかんというのにっ」
冥加があせってぴょんと飛びあがりながらどなったが、激痛は押さえ込もうとした弥勒の手をはねのけて、さしも冷静な殺生丸が食い入る痛みに自らのどもとに爪を立てたので、雪のように白いうなじに血は筋を描き、かすれた呻き声が奥から洩れた。
「殺生丸、兄上、しっかりして下さい、なんてことだ、畜生」
弥勒一人の腕ではとうてい押さえきれず、珊瑚が手を貸そうと駆け寄った。
「ち、ちきしょう」
見ていられなくなって、犬夜叉は顔をそむけた。
「ちきしょうッ、どうすれば」
「犬夜叉、その霊刀というのを取りに行きましょう」
「かごめ」
「霊刀の霊力がどんなものだか知らないけど、あたしなら、その剣を持てるかもしれないわ」
(そうだ、巫女の力を持ってるかごめなら、その霊剣とやらを使えるかも知れねえ!)
「かごめ、来てくれるか。殺生丸は、二度もお前を殺しかけたこともあるんだぞ」
「でも、犬夜叉の血を分けたたった一人のお兄さんで、今も犬夜叉をかばってくれたわ」
かごめは力強く言った。
「どうしてこんな無謀なことをしたのかわからないけど、半妖の犬夜叉より、完全な妖怪の自分のほうがまだしも生きのびる見込みがあると思ったのかもしれない。殺生丸は犬夜叉を助けてくれた。私も殺生丸を死なせないわ。行こう、犬夜叉、急がないと」
犬夜叉は後ろを振り返った。
「珊瑚、雲母を借りるぜ。弥勒、お前たちは、」
唇をかんで、彼は言葉を継いだ。
「お前たちは、そいつに・・・殺生丸についててやってくれ。こんなときに敵に襲われたら、いくらそいつでもひと たまりもねえ、だから」
「心配するな、犬夜叉」
膝をついたままの弥勒が言った。
「だが、急いで帰って来い。いかに兄上といえどこのままではあまり長くは持たん」
「・・・頼む」
(待っていろ、殺生丸、おれが戻るまでくたばるんじゃねえぞ!)
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