直線上に配置

言わで思ふぞ:其の二

 神宮は遠い。宙を飛ぶ雲母の快足といえどもそうすぐにはたどりつけぬ。はやる二人の目にも、森を越え山飛び越えたどこにその宮があるのかわからない。心はあせったが、眼前には鬱蒼と茂る森また森が連なるばかりで、たまに見るものは小さな村や城、わずかな神社仏閣などばかりなのだった。

(くそっ、どこにある、その社ってのは)

 殺生丸の苦痛にゆがむ美しい顔と地面に流れる白銀の髪が目の前をチラチラした。見るも無残に苦しみ抜いて息絶える姿が払っても払っても目に浮かぶ。

(ちくしょうッ、まだなのか、急がねえと、もう日も落ちるってのに)
「犬夜叉、あそこ見て、参道があるわ」

 森閑とした深い森の中に突然ひらけた場所が見えてきた。白木の柱と太い注連縄、銀を葺いたような屋根の連なる幾つもの建物で、そこがめざす霊剣を神体に奉じた古い大宮と知れる。白衣に緋袴の巫女たちが拝殿らしき場所を何か持って出入りしており、壮麗な本殿の周囲に白衣を着た宮掌らが歩き回っているのが見えた。身分高い宮司らしき人影もちらほら見える。

 神域は本来妖怪には鬼門、うかつに踏み込めばどのような目にあうかわからなかったが、犬夜叉はもはやこれ以上時間を無駄にする気はなかった。ためらうことなく、一直線に本殿の八足門の前に飛びこむや、二人は雲母の背から飛び降りた。

「妖怪?!」
「妖怪だ」
「神域に妖怪が!」

 人々の驚きの叫び声があがる。巫女たちが悲鳴をあげて逃げ惑い、衣冠をととのえた権宮司たちが走りよってくるのに目もくれず、犬夜叉はかごめを後ろに楼門のうちへと駆け入った。

「何者だ!」
「妖しのものが現れたぞ」
「もののけだ」
「物の怪が!」

 白木の匂いも鮮やかな本殿の階段を駆け上り、犬夜叉は荒々しく閉じられた大きな扉を爪の一撃で叩き割った。
 ヒュン、ヒュン、という音とともに、一陣の矢が壊れた戸に突き立った。振り向くと数人の巫女や神職たちが破魔の弓を手にこちらへ駆け向かってくる。

「チッ、来やがった」

 舌打ち鳴らして、犬夜叉は白髪を振り乱して奥殿のほうへ向き直った。

「かごめ、行くぞ」
「うん」
「あやかしを止めろ!」
「物の怪を射止めろ」

 叫び声が後ろへ聞こえる。壊した扉から中へ飛び込んだとたん、二人は思わず足を止めた。

「・・・これは」

 古めかしい拵えながら、鞘の色も鮮やかに一目で威力を秘めた霊剣とわかる。奥の白木の台に横たえられたその前に、純白の束帯に身をつつんだ一人の男が立っていた。白髪をなびかせた若い半妖めいた姿と若い娘という奇妙な組み合わせが飛び込んできたというのに、さして驚いた様子もない。まだごく若いように見えたが、落ち着き払った態度とすずしげな目元で、不思議そうにこちらを見た。

「・・・・どうしたな、そなたたち」

 こんな時だというのに、犬夜叉らはその悠然たるおちつきにいささか気圧されて後ろに下がった。

「あ、あの、ごめんなさい、私たち、お願いがあってきたんです」
「・・・お願い?」
「お前、だれだ」

 犬夜叉が鉄砕牙の鯉口を切って、低く云った。男はそれに目をやったが、依然としてその落ち着きは変わらなかった。

「私は、この神宮の大祭主じゃ。この神殿にて霊剣を奉じ、神々を祀っておる」

 しずかな口調で男は云った。かごめは前へ踏み出した。

「こんな荒っぽいことしてごめんなさい、でもどうしてもお願いしたいことがあるんです。あなた方の祀っているというその霊剣、天羽々斬の剣を貸してほしいんです」
「・・・・天羽々斬の剣を」

 いきなり神域に踏み込んできて、ご神体たる霊剣を貸せというのだから、ずいぶん驚いて卒倒してもよさそうなものだが、祭主はおどろかず、かごめと犬夜叉の顔を見たきりだった。後ろにばらばらと飛び込んできた雑司や宮掌、神社を守る神職たちが、代わりに驚愕した声をあげた。

「きさまら、霊剣を奪いに来たのか?!」
「おのれ妖怪、誰がそんなことを許すか」
「神域を汚す不届き者め、こやつらを追い払え」
「殺せ、殺してしまえ!」
「妖怪を殺せ!」
「破魔の矢で射殺してしまえ!」
 (くそっ、これまでか)

 犬夜叉が動いた。腕の下にかごめを掻い込み、床板を蹴って一飛びするや、おどろき騒ぐ人々を尻目に祭主の体を飛び越えて、霊剣の後ろへとおりたった。

「わりいが、どうしても今すぐこいつが必要なんだ」

 何か云おうとするように、大祭主が手をあげかけたが、犬夜叉のほうが早かった。霊剣に手をふれたとたん、バチバチバチッと青い火花が散った。

「・・・そなたにさわるのは無理だろう」

 祭主はおだやかに云った。人々がどよめいた。

「ざまをみろ、妖怪めが、霊剣にふれられるものか」
「貴様らいやしい物の怪ごとき、何もできはせんわ」
 (くっ)
「・・・かごめ、頼む」

 火傷した手から白い煙が上がる。振り向かぬまま犬夜叉が言った。かごめが手を伸ばして霊剣を抱えあげようとした。そのとき、祭主がしずかに声をかけた。

「・・・お待ち。その剣は抜けないよ」
「えっ・・?」

 さすがに意表をつかれて、二人はそちらを見た。

「そなた、巫女だな。その剣を持てるとは並々ならぬ霊力の持ち主だろうが、鞘にかけられた結界までは解けぬだろう。それはその剣が悪いことに使われぬよう霊力を封じる結界なのだよ」
「・・・・なんだと」

 子供にさとすような口調であった。祭主はなおも言った。

「その剣は抜けないのだ。何を斬りたいのかね。人をか。それとも妖怪をか。それとも何かこの世ならぬものを斬りたいと?」
「・・・・っ」
「祭主さま、お下がりください、妖怪から離れて」
「破魔の矢で射抜いてくれる、覚悟しろ」
「・・・騒ぐでない。神域を血で汚すようなことをしてはならぬ」 

 若い祭主は静かに言った。

「しかし!」
「さがっておいで。確かにこの姿は妖怪めいているが、この娘は人間だよ。妖怪がわざわざこの神域に忍び込むには何かよほどの理由があるのだろう。話してごらん。そなたたちの名は?」
「・・・・あたしはかごめ。これは犬夜叉よ」

 確かにこの若い大祭主には、並み居る宮司たちをおさえてその上に立つだけの霊力と器量があるようだった。皆が静まったので、かごめは恐る恐る云った。犬夜叉は唇をかんだ。

「そう・・・それで?」
「おれの・・・おれの、兄が」

 ためらいがちな口調で犬夜叉は云った。

「兄?」

「縛妖索にかかった。切るにはこの霊剣しかねえと聞いたんだ」
「そう・・・縛妖索に」

 祭主の態度は依然しずかだった。

「その、縛妖索にかかると妖怪は妖力を吸い取られて死んでしまう。あまり時間がねえんだ。早く戻って切らないと」
「何を云ってる、妖怪が」

 また後ろの宮司たちが叫んだ。

「妖怪ふぜいが誰を助けるだと」
「わなにかかったなら、妖怪なんぞそのまま死ねばいいんだ」
「当然のむくいだ、薄汚い妖怪が」

(ひどい)
 かごめは怒って人々をにらんだ。なんてこというの、弟が兄を助けようといってるのに、妖怪だから死んでしまえなんて、

(犬夜叉はいつもこんな具合ね、妖怪からは半妖と後ろ指をさされ、人間からは薄汚い妖怪なんてののしられて)

 かたわらに立つ犬夜叉のことが心配でせつなくて悲しくてたまらなかったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。

「お願い、数日でいいんです。この結界を解いて、この剣を貸してください。必ず戻しにきますから、お願い!」
「そうしてやってもいいが・・・犬夜叉とやら、そなた、見たところ半妖だね。縛妖索にとらわれたところを見ると、兄というのは妖怪なのだろう。妖怪と半妖は、あまり仲がよくないと聞くが、いいのかね」
「・・・・よく知ってやがる」

 犬夜叉はつぶやいた。

「さすがに大祭主とやらになるだけのことはあるな。確かにあまり仲は良かあねえが、けど・・けど、そいつは」
「・・・・・そいつは?」
「そいつは、おれを――おれをかばって」

 口からその言葉を出すのをためらうように、犬夜叉は言葉を切った。

「・・・・・・・」
「馬鹿なことをしやがった。おれの身代わりに縛妖索にかかったんだ。頼む、その霊剣を貸してくれ。必ず返す。約束する。たった一人の兄だ。おれは、やつを死なせたくねえ、あんな無残な死に方だけはさせたくないんだ。たのむ!」
「・・・・やさしいことを云う」

 犬夜叉の必死の思いが、その表情と声から伝わったようだった。大祭主は言った。

「よくわかった。そちらの娘、かごめといったね。その剣を貸してごらん。結界を解いてあげよう」
「祭主様!」

 人々が口々に叫んだが、大祭主は何も聞こえぬように霊剣を受け取ると、何か口の中で呪をつぶやいて、鞘の上に指で梵字らしきものを描いた。簡素で、大仰なこけ脅しめいたものは何もない仕草だったが、にもかかわらず、二人は相手の静かな気品と醸される威厳に何か打たれるようなものを感じた。祭主が文字を描き終えると、鞘と剣の鍔の間が一瞬目を射るように光って消えた。

「十日の内に戻しにおいで。それで足りるかね」
「あ、ありがとう」

 渡された剣を受け取って、かごめがつっかえながら云った。

「大丈夫よね、犬夜叉」
「ああ」

 とまどいながら、犬夜叉は相手を見た。

「・・・礼を言うぜ。心配すんな、必ず返しにくる」
「返してくれるのは疑わぬが、気をつけなさい。その霊剣はとても強力で危険だよ。あまり長いこと神域の外で遊ばせておいていいものではない。くれぐれも鞘から抜くのは、その兄を助けるときだけにおし。そして、そなた、その巫女以外に手をふれさせてはならぬ。わかったね」
「わかったわ」
「縛妖索の話は私も聞いている。かかった妖怪の苦しみはひとかたならぬものだとか、何とか霊剣が役に立てられるといいが」
「ああ・・・すまねえ」
「そなたの兄は幸運だな。いかに半妖の身とはいえ神域は身の毒、ここへに霊剣を取りに入ろうという無茶を試みるほど兄弟思いのものは人にも妖怪にもそうはおらぬよ。無事助け出せたらそう言っておやり。さ、邪魔されぬうちに、早く行くがいい」
「・・かごめ、行くぜ」

 なおも騒ぐ人々をしりめに、娘は霊剣を腕にかかえ、緋色の衣姿の半妖はその体を背に負って、外にとびこんできた妖しい化け猫にまたがるや、二人の姿はたちまち空を駆け、彼方の山へと飛び去った。大祭主はその姿を静かにながめていた。

「なんてこった、行ってしまった・・・」
「さ、祭主さま」
「妖怪がご神体の霊剣を持ち去ってしまったぞ」
「祭主さま!」
「しずかにおし、たかだか数日のことだよ」

 詰め寄る宮司たちに、祭主は微笑しながら答えた。

「しかし!」
「なんだってまた、あんな妖怪のために二つとない大切な霊剣を貸すなどと」
「命を助けるのに霊剣を使ってはいけないかね。別にここに大事にすえてあるからといって、物の役にたてて悪いわけではない。戸のつっかい棒にするならともかく、命を救えるなら霊剣もそのほうが喜ぶだろう。まして死にかけた兄を救う望みとあれば」
「兄だなどと、どのように危険な妖怪かわからないではありませんか」
「そんなに危険な妖怪の弟なら、私たちは今頃生きてはいないよ。妖怪にも兄弟を想う情はある。かわいそうに、あの半妖の表情を見たかね。もしも結界が解かれなければ、たとえ霊剣の気に焼かれてでもあの剣を持ち帰るつもりだったに違いない。大切にしているのだな、その妖怪の兄を」
「ですが、妖怪などお助けになっても何の役に立ちましょう」
「わからないよ。今は霊剣でその妖怪を助けたが、もしかしたらこの次は、その妖怪が妖刀で人間の私を助けてくれるかもしれない」
「そんな馬鹿なことがあるわけが」
「まあそういい騒ぐな。あの二人は必ず霊剣を返しにくる。案じることはない」

 不承不承ながら散っていく人々を見送って、祭主はまた奥殿の中に向き直った。

(無事、間に合うといいが)

 空っぽの台をみながら、彼はつぶやいた。


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