言わで思ふぞ:其の四
殺生丸は岩屋の入り口に座っている弥勒を見ていた。
(・・・・・・・・)
視線だけでこちらを向かせられようはずもない。殺生丸はまた身じろぎして、痛むのどをそっとおさえた。奥にいる犬夜叉の兄がなんとなく落ち着かない様子なのを、法師は気づいたようだ。
「・・どうしました」
弥勒は立ってそばへと近づいた。殺生丸がひじをついて体を起こそうとするのを見て、驚いて手をかける。
「お待ちなさい、ちょっと待って、いくらなんでも起き上がるのは早すぎます、ちょ、ちょっ、ちょーっと待って、待ちなさいってば、兄上」
止める言葉など耳にもいれず、殺生丸は半身を起こしかけたが、そこで軽いめまいをおこしたように急にふらりとよろめいたので、弥勒はあわてて体を支えた。
「だからいわないことじゃない、無理ですよ、起き上がるのは。どうしてそう動きたがるんです。外へ出たいんですか」
殺生丸は何も言わない。ただその顔色を察して、弥勒はため息をついた。
「・・・・弱ったな。少しだけですよ」
もたれかかる体をひょいと両腕に抱えあげる。相変わらずその体は天人のように軽くてしなやかだった。そのまま弥勒は岩屋の外へ向かい、陽射しの中へと歩み出た。
「・・・なんとよく晴れていること、手まで真っ青に染まりそうな青さだ」
空を見上げて彼は言った。抱き上げられたままの殺生丸もまぶしそうに目を細めた。岩屋の入り口によりかかって腰を下ろすと、弥勒は腕の中の相手をひざの上に軽く横たえなおした。殺生丸は何もいわず、腕にもたれかかっている。
「じっさい、あなたは一体何を食べて生きているんですかね。こうして腕にしていても、まるで花びらか何ぞのように軽いが」
「・・・・・・」
「おかしなことをいうと笑うでしょうが、倒れていたときのあなたは、本当に折られた花のように見えましたよ。何の花かと聞かれると困るが、そうだなあ、白い梨の花か白梅か、何かそんな感じでした。白牡丹でもよかったな。そのほうが雰囲気が似ているかもしれない」
「・・・・・・」
「牡丹を見たことがありますか。私は一度しかお目にかかったことがない。あとは屏風の絵か着物の柄くらいでね。唐天竺にはずいぶん咲くと聞くが、手のかかる花だ。あでやかで華麗で、誇りやかで。私は好きですよ。こんな争いの多い国にはそぐわないのかもしれないが」
「・・・・・・・」
「梅は濃いのも薄いのも紅梅なんて古い本ではいうが、私は白梅のほうが好きだな。なんとなく凛然として、あまり色香をふりまかないふうなのも好ましくてね。はは、この時節に梅の話でもないか」
「・・・・・・・・」
「つまらないですか、花の話なんて」
弥勒はちょっと笑った。殺生丸はその顔を見上げたが、やはり何もいわなかった。
「・・・あなたが死ななくてよかった」
しずかな口調であった。風がさやさやと吹いて、腕の中の殺生丸の銀色の髪をほのかにゆらしていた。初夏の空気はさわやかで、明るい陽射しが快かった。
「もうだめだと思いましたよ。あのとき、あなたが揺らしても目も開けず、息もしていなかったときの気持ちというものはなかった――おかしな話ですな。私とあなたは、ほとんど口をきいたことさえなかったというのに。ばかなことを考えるものだと思うでしょうね。人間なんて生き物は、そんな大した知り合いでもない相手の生死に一喜一憂して、感情を無駄づかいして。でも、私はあなたが助かってうれしかった。不思議なものだ、人間というものは。あの鎧が砕けて、あなたが血を吐いたとき、こちらの胸まで張り裂けるような気がしたが―――わからないでしょうね。妖怪のあなたには」
「・・・・・・」
黙ったまま腕にもたれて、殺生丸は金色のひとみで自分を見つめている。弥勒はちょっと困ったように笑った。
「いやそのう、ただのひとりごとですって、そんなに見つめられるとどきどきしますよ。あ、そうだ、怒ってないですか。あのときのこと」
「・・・?」
「覚えてないですか。それならいいが、そのう、今にも死にそうだったので、ちょっと手荒な真似をしたでしょう。ええ、頬をその、えーと、ちょっぴり叩いたりとか」
「・・・・」
「いやその、やぶへびだったかな。でもあのときは、あれは仕方なかった。あなたの息づかいは本当に頼りなくかぼそくて、ああでもしないとあなたはそのまま腕の中でこときれてしまいそうだったし」
「・・・・」
「あのまま、あなたを死なせてしまうことを考えたら、他のどんなことでもするつもりだった。たとえ、そのあとで怒ったあなたの手にかかるとしても、それも本望ってものだ。殺しますか、私を?」
弥勒は大胆に正面から殺生丸を見つめた。相手もまた自分を見つめ返した。つかのま、互いの視線はからみあい、永遠に引き離すこともできないかのように思われた。
ふいに殺生丸がかすかな、ほんとうにあるかなきかの微笑を口元にふと見せたと思うと、そっと目を伏せてしまった。なんとなくはにかむような仕草であった。相手の心根に免じて今回の無礼は許してやろうということなのか、それとも現在ただいま自分を抱き上げている相手に、そんなに凶暴な気の荒い奴だと思われたのが恥ずかしかったのか。
(へえ)
弥勒はくすりと笑って、また空のほうへ目をやった。
殺生丸もまた空のほうを見ていた。それから少しだけ体を動かして、そっと抱かれている肩に頭をもたせかけた。
「・・・疲れましたか」
弥勒が何か言いかけたが、殺生丸の手がそれをおさえるように体にそっと触れたので、彼は黙った。
(静かなんだなあ・・・こういうところは犬夜叉とはぜんぜん違うな)
犬夜叉が黙り込むと、何をふさいでいるのかとかごめが気にしたりするが、殺生丸はこういう大人びて物静かなのが普段どおりの姿なのだろう。そういえば連れはどこに置き去りにしてきたのだろうか。今ごろ心配しているに違いない。
(でもないか。殺生丸の身を心配するなんて必要は本来ありえんだろうしな)
今回のようなことは例外中の例外なのだ。自分にしてもこの相手をこんなふうに腕に抱き上げるなんてことは、おそらくこれが最初で最後だろう。殺生丸が慣れない立場に落ち着かないのも無理はない。
(まんざら悪い気もしないけどな。こうしているといつもとはまるで別人だし)
病み上がりでおもやつれしているせいもあろうが、腕にもたれてさしうつむいているその顔にはいかにも高貴に臈たけた風情があった。いつもの秋霜の厳しさの裏に隠された、これが殺生丸のもう一つの顔なのであろうと思われた。
あまりに何もかもが人間と違っていた。爪や牙はもとよりその額の印、不思議な白い髪、肌の作り、透きとおる鼈甲のような金色のひとみを翳らせる長い睫毛のはしに至るまで、そのすべてが、これは人間とはまったく異なる別世界の生き物なのだと告げていた。
(犬夜叉・・・・つらいだろうな)
「・・・」
殺生丸がふといぶかしむように視線を向ける。弥勒は少しさびしそうに微笑んだ。
「何を考えているのかと言いたそうですね。考えていたんです、犬夜叉のことを。つらいだろうな、と」
「・・・・」
「あなたを見ていると、なんて妖怪というものは人間と違うのだろうとつくづく思う。あまりにも別世界の住人で、違いすぎてうらやむ気にも悩む気にもなれない。でも犬夜叉は」
「・・・・」
「人間にもなりきれず、かといって純粋の妖怪でもない。二つの間が離れていればいるほど、半妖の犬夜叉は一人ぼっちで宙ぶらりんだ。どちらに属すこともできない。人間から見ればあまりに妖怪に近く、妖怪から見ればまたあまりにも人間めいていて」
弥勒はふとため息をついた。
「私にはあなたが犬夜叉を憎むというよりむしろ嫌っているというように思える。あなたはいつも犬夜叉のことを半妖とさげすむが、だからといってあなたが心底半妖を嫌いぬいているというようにも見えない。犬夜叉はあなたのことを決して嫌ってはいませんよ」
「・・・・・」
「犬夜叉は決して愚鈍ではない。むしろとても鋭くて敏感なところのある奴だ。ことに自分に向けられる人の心についてはね。初めてあなたに風の傷を使ったとき、犬夜叉は刀を振り切れなかった。刀々斎は憎みあっていても兄を殺すほど冷酷になりきれなかったのだろうと、そう言っていました。私もそう思う。でも、それなら犬夜叉はなぜあなたのことを、そんなふうにあくまで兄と思うのだろう。いつも自分を半妖とさげすみ軽んじ、時には殺そうとはかるその相手を」
「・・・・・・・」
「本当にあなたが真に冷酷非情で、犬夜叉を人とも弟とも思わぬようなあつかいをしてきたなら、犬夜叉があなたのことをわずかなりとも兄と思うはずがない。ただ血がつながっているだけのことで、あなたを殺しきれぬほど兄弟の情にひかれるなんて、犬夜叉もそこまで甘っちょろい性格ではない。あれでも大妖怪の血を受け継ぐ身なのですからね。でも犬夜叉はあなたをやはり兄と思い、身内と感じている。それは、あなたが犬夜叉に自分たちが兄弟なのだと思わせるような、そんな振舞いをどこかで見せてきたからだという、そんな気がしてならない。あなただってそうでしょう。その証拠にいつも犬夜叉に会うとき、あなたは自分のことをこの兄と呼ぶ、犬夜叉からは決して兄と呼びかけられることはないというのに」
「・・・・」
「犬夜叉とあなた、お二人にはたしかにどこか似たところがありますよ。こんなことを言うとあなたはさぞ立腹するだろうが――顔立ちだとか挙措動作といったことではない、考え方や気性の底にどこか共通したもの―――他人のいやしい思惑など受け付けぬような、人間の俗っぽい感情に汚されることを拒むような、そんな何がなし高貴とでも呼びたいような何かが流れているのを感じる。もちろん二人ながら現れ方は全く違うけれども」
「・・・・」
「なぜ、あなたはそんなに犬夜叉を許せないのだろう。何があなたにそんなふうに犬夜叉のことを思わせるように仕向けたのだろう。半妖だから?だが犬夜叉にせよ、求めてあのように生まれついたわけでもないものを、それを責めてみたところで」
「・・・・」
「鉄砕牙が犬夜叉のものだからか?だがそれなら犬夜叉を憎んでみてもしかたがない。彼が半妖であるのも鉄砕牙を持つのもすべてはあなたの父君のご意思によるものだ。だからですか?父を恨むことも憎むこともできぬので、その父が選んだ犬夜叉を憎んでいると?」
「・・・・・」
「・・そう、たしかにあなたは憎んでいるのかもしれませんね。犬夜叉自身をではなく、何か犬夜叉の知らないところでその出生にまつわる隠された何かを。それが何であるのかまでは、私にはわからないが」
「・・・・」
「別にあなたに犬夜叉を愛してやれとも認めてやれとも言いはしませんが―――ただ、一緒にいて犬夜叉の心根があわれに思われることです」
「・・・・」
「すみません、もうよしましょう。あなたも疲れているんでしたね。こんなときにこんな話ばかりして」
弥勒は口を閉ざした。殺生丸もまた胸中を語るつもりはないらしかった。
どうして口に出すことなどできたろう。この世にただ一人、思慕し崇拝し憧れ求め、自分のこの手で倒したかった最強の父、人間の女を愛し、その間にできた子を愛し、そのために死んでいった父、その死に様を思うときの骨もきしむほどなこの無念を。
(だれにも語れぬ。語ることなどできぬ)
(犬夜叉)
(犬夜叉・・・貴様とその母のために、父は)
(父上――)
「・・・・・・どうしたんです。泣いているんですか」
驚いて、弥勒が声をかけた。閉じた金色の切れ長の目のすみから、ふいに涙が一粒こぼれて落ちた。
「・・すみません、少し言い過ぎたようだ。そんなにつらかったですか、犬夜叉の話など聞かされるのが」
殺生丸は黙って目をつぶったまま、こたえるそぶりも見せなかった。
「大丈夫ですか。中へ戻って休みましょうか」
弥勒は心配そうに問いかけたが、相手は黙ってかすかに首をふった。
「でも、少し顔色が」
「・・・・・・・・」
「わかりましたよ、ここにいましょう。なら少し眠ったほうがいい。なんだかひどく疲れたような顔をしている。どうやら私が一人でしゃべりすぎて大分疲れさせてしまったようだ。まだ体も十分でないのに申し訳なかった」
弥勒は腕の中の相手をそっと抱えなおして、頭を自分に寄せかけた。殺生丸はさからわず、されるままになっていた。
「少し眠って下さい」
もう一度そう言って、彼は口をつぐみ、ふいに辺りは静かになった。もう聞こえるものといっては木立を抜ける風のかすかなざわめき、遠くに聞こえるツグミの声ぐらいだった。
(たまにはいいな、こういう無口な連れと一緒にいるってのも)
一人でぽつねんと、しかし気ままに気楽に旅していた頃のことが思い出された。別にあの頃に戻りたいとはまったく思わなかったが、それでもやはりこうした寡黙なひとときがなつかしく思われるのも不思議だった。
(眠ってしまったのかな。あまり病み上がりで日に当たりすぎるとかえって疲れるんだが)
いったい普段の殺生丸というのは、どういうふうにして暮らしているのだろう。妖怪らしく夜動くのだろうか。それとも犬夜叉のように夜昼おかまいなしに、好きなように行動するのだろうか。何を食べて何を飲み、何を見、何を考えて、毎日暮らしているのだろうか。
何もかも、すべては謎だった。わかっているのはただ、自分の腕の中で相手の心臓が息づいているということ、うすい布ごしに伝わってくる柔らかな息遣い、その胸がかすかに上下するたびに響いてくる熱い生命の感触・・・
(まるで小鳥を抱いているようだ)
軽くて柔らかで熱くて、命の鼓動がじかに手のひらに伝わってくる。
ひとたび目覚めて剣の柄に手をかければ、どんな猛獣も及ばぬ危険な妖怪に豹変するはずの相手をこうして腕に抱いているというのも、我ながら大胆なことであった。殺生丸の気性はわかっているつもりだが、そのすみずみまで知り尽くしているとはとうてい言い難い。何をどう、どんなことで怒ってもとの危険な兄に戻って自分ののどを引き裂こうと考えるかもわからない。そうやって考えてみると、あの乱暴に頬をはたいた仕打ちを殺生丸が許してよこしたのは奇跡といってよかった。
(重さは小鳥だが、実際に抱いてるのは翼を痛めた猛禽ってとこか)
それはまたそれでなんとなく心楽しむことであったが、そうはいってもとてものことに、この先ずっと馴れてくれる相手とも思えない。今はおとなしく撫でられているが、単に怪我をしているから大人しいだけの、本性はやはり獰猛な野生の生き物なのだと思うしかなかった。
(こんな猛禽を手なずけるのは命がけだよ。さわれただけでも運がよかったかも)
さわれて幸運などといわれたら、さわられた殺生丸はずいぶん不機嫌になるかもしれないが、当面そう思っておくほうが無難ではあるだろう。
(正直、そんなふうに思うのはちょっと残念だけどな)
本当に腕の中の相手は花のようにかろやかで生身の体とも思えないくらい美しいのだ。この不思議な別世界の生き物を本当に芯から手なずけられるような人間というのは存在するのだろうか。手なずけるなどといったら何だか本当に猛獣扱いのようで申し訳ないが、何かこう、普通に会話をしたりすることのできる相手というのはあるのだろうか。
犬夜叉がこの、ときに冷ややかで近寄り難く孤高の兄にどう接していいか迷うのも無理はないと弥勒は思った。誰にも親しまず、孤高の矜持を保っているのが誇りたかい殺生丸の気性にはあっているのだろうが・・・
(人間の少女を連れているとは聞いているが)
殺生丸は自分たちの前に姿をあらわすときには、一人きりのことが多い。特にその人間の少女を連れて見せたことはほとんどないのだ。犬夜叉と危険なやりとりをするときに、気が散るような存在をそばにおいておきたくないのか、それとも風の傷にさらすようなことのないように、闘いの間はどこかへ大事にしまっておきたいからか。
かごめが一日実家に帰っただけで大騒ぎする犬夜叉とは、それもまた対照的であった。孤独に生い育って人恋しい犬夜叉に比べ、兄はやはり一人で行動するのが性に合っているのだろう。
(こう性格が正反対じゃあ、しょせん仲良くしろってほうが無理というもの・・・・)
惜しいことだと弥勒は思った。先に殺生丸を白牡丹の清麗に例えたのは嘘ではなかった。兄が白牡丹なら弟は華麗な緋牡丹か、本来ならば二人揃って咲き誇る大輪の花の如く見事な兄弟ともなれたものを。
(宿世、というものなのかも知れんな)
弥勒は体を軽くゆすって腕の中の相手を抱きなおした。なんだかんだ言ってもこうして見ていて見飽きないくらい美しい相手ではあるのだった。さきほどより少し顔色がよくなったようで、彼はいくぶん安堵した。
(俺も少し昼寝しようかな。でもうかつに眠ると落っことしてしまいそうだしな)
落っことしたら随分怒るに違いない。二度と口をきいてもらえないかもしれない。
(・・・一緒じゃないか。今だって全然しゃべらないんだから)
まったく我が儘で驕慢で贅沢な相手だと弥勒は思った。それがまた不思議に板についているからますます困るのだが、しかし、まさか、もう抱っこはおしまいですよと言って、抱えて奥においてくるわけにもいかないだろう。
(もう少しこうして抱いていよう。めったにないことだし、まだ病み上がりなんだし・・・そのう、けっこう可愛い寝顔してるしな)
うとうとしている殺生丸の衿元からのぞく、美しい鎖骨の影をを見ながら弥勒は思った。
* * *
「おや、お目覚めですか」
腕の中の相手がふと目を開いたのを見て、弥勒は声をかけた。もう数刻がたっていた。殺生丸はちょっとまぶしそうにまばたきし、それからいかにも眠たそうに小さく欠伸をしたので、弥勒はちょっと笑った。殺生丸が不思議そうにその顔を見た。
「すみません、可愛らしくあくびなんかするからおかしくて」
「・・・・・・」
殺生丸は知らん顔で向こうをむいてしまったが、その耳朶が少しだけ赤くなったのを
弥勒は見つけて、ますますおかしかった。あくびをからかわれたくらいで赤くなったり
して、繊細なんだな。
「・・・・ほととぎす」
「え?」
ふいに腕の中で小さくそうつぶやく声が聞こえたので、弥勒はおどろいて聞き返した。
「今なにか・・・あ」
遠くで、ほとんど聞き取れるかどうかというかすかなホトトギスの鳴く声が聞こえた。
「お耳のよいことだ。ほととぎすの声が聞けるとは、そういえば、もう五月なのですな」
のんびりそういうと、弥勒は遠くに目をやった。ふと見下ろすと、殺生丸が何ともいえぬ複雑な眼の色で自分の顔を見ていた。
「・・・兄上?」
何か、もの言いたげな視線であった。けれど弥勒が顔を向けると、殺生丸はつと顔をそむけて、彼方の空のほうへまた目をやってしまった。
(弱ったなあ)
何度目か、弥勒はまたそう思った。人でも妖怪でもやんごとない生まれというのはみんなこんなもんなのか、自分が口に出さなくとも相手が自分の気持ちを察するのを当然と考えるってのは。
(それとも単に内気ってだけのことなのか――まさかね)
犬夜叉の兄が内気だなどと言ったら雲母だって笑うだろう。
(やっぱり喉の傷が痛むのであまり声が出せないのだろう。しかたがない、早く妖力が回復して楽になるといいんだが)
ちょっと吐息をついて、弥勒が体を伸ばしたとき、ふいに腕の中の相手が空を見上げて、体をなかば起こしかけた。
「どうしました?」
もとより答えはない。突然、殺生丸がすいと腕の中を抜け出すと、おぼつかない足取りでつと岩屋の中へ入ってしまったので、弥勒はあっけにとられた。
(おやおや、何か気に障ったのかな)
そういうわけではなさそうだった。ふと地面に映った影をみて空を見上げた彼は、急に殺生丸が自分の腕を抜け出して奥へ消えてしまった理由がわかった。雲母にまたがり、こちらへ向かってくるかごめ達の姿が小さく見えた。
(なるほどね)
弥勒は苦笑した。二人っきりのときは平然と我が物顔でひとの腕を独り占めしていたくせに、人に見られるのはいやなのか。恥ずかしがりやなんだな。
「・・・・何を笑っている」
奥から、初めてかすれてはいるが、はっきりした声が聞こえた。
「声が出るようになったのですか」
「・・・・何を笑っているのかと聞いている」
弥勒は笑いながら背を向けた。
「見かけによらず、恥ずかしがりやなんだなあと思っただけですよ―――――あ痛」
くすくす笑いながら出て行こうとする弥勒の頭の後ろに小石がぶつかるコン、という派手な音がした。
頭をさすりながらふりむいたが、犬夜叉の兄のほうはもう向こうをむいたまま横になっていて、こちらを見ようともしなかった。
(やれやれ)
「法師さまーっ」
「弥勒さま」
かごめたちが雲母から降りて駆け寄ってくる。
「殺生丸の具合はどう」
「・・・もう幾許もなく回復するでしょう。あの調子なら」
弥勒は笑いながら言った。
(私もたいがいお人好しというか、ようするに昼寝の布団がほしかったので、しとね代わりに人の腕を使わせたってことなのかな)
それとも、退屈していて、温かい人肌のふところでぬくぬくしていたかったのかもしれず、あるいは、単に何か安心できるものにもたれかかって日向ぼっこでもしたかったのかもしれない。
だとしても、それも殺生丸らしいことだと彼は思った。そういういくぶん高飛車で、他人が自分にかしずいて大切にしてよこすのを当然と心得ているような、そんな気位の高い驕慢なところは、むしろこの犬夜叉の兄にはいかにもふさわしく思われた。
また、遠くでホトトギスが鳴いた。
(鳴くや五月のあやめ草、か)
古い歌を思い出しながら、弥勒は荷を取ろうと歩き出した。
(あやめも知らぬ恋もするかな)
(あやめも知らぬ)
(恋)
(ほととぎす)
突然、弥勒は立ち止まった。
(まさか)
ほととぎす、と小さくつぶやかれて、自分が鳴く声に気づいたかと言ったときの、殺生丸のあの奇妙な態度―――あの不可解な目の色は、いったい何を語りかけたかったのだろう。
(まさかね――そんなことがあるわけが)
もしかして、殺生丸はあのホトトギスの声にことよせて、この歌の意のあるところをふと口ずさんだのではあるまいか。あるいは、その心が自分に伝わってくれることを半ば願い、半ば期待もせぬままに。それがあのときの、あの見つめる複雑な目の色になって表れたのではなかろうか。
あやめも知らぬ恋・・・自分でも筋道もわけもわからぬような悩ましい思い―――そんな己が複雑な胸のうちを、まさか訴えたかったわけではあるまい。それとも・・・?
共にすごしたのはほんの数刻、それも大半は声をかけたりかたわらに座ったり、ときには手荒にゆすぶったりしただけで、それは最後は意識も混濁しかけた相手を体ごと抱きしめて温めたりはしたけれども、それを相手が覚えているとも思われなかった。そう、覚えてはいないだろう、たぶん・・・
弥勒は、自分もまた美しいと思ったその金色のひとみをもう一度思い浮かべた。殺生丸が、まさかこの自分に・・・
(しょってるな、俺も)
それはたしかにあやめも知らぬことだろうよ。弥勒は苦笑した。あんな短い間のことで、殺生丸が自分に何か特別な感情を抱くだろうと考える理由は何もなかった。抱かないと考える理由もまたないのではあったが。
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