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言わで思ふぞ:其の三

 犬夜叉がかごめと共に霊剣を求めて飛び去ったあと、残された弥勒と珊瑚は人気のない洞窟の奥に身をひそめて、二人の帰りを待っていた。奥に横たえた殺生丸の容態はますます悪く、その苦しみようはさしも物慣れた彼らでさえ、見ているのがつらくなるようなものであった。

「・・・・法師さま、少しは眠れてる?」
「無理ですな。珊瑚、お前も?」
「うん・・・だって、あんな苦しそうな声を聞かされて、とても眠ることなんかできないよ。もうずっとだもの、聞いてるこっちもつらくて」
「そうですな・・・」

 あの悲鳴以来、殺生丸は一度も声をあげなかったが、しかし激しい息遣いと苦痛のうめきはおさえようとしても抑えかねた唇から洩れ聞こえてくる。時折手をあげてのどをかきむしるのを、弥勒はなんとか止めようと手を尽くさねばならなかった。誇りたかい殺生丸が人間の前にこんな姿をさらすのは、縛妖索よりつらい苦痛に違いなかったが、今はそれを気づかってやるゆとりもなかった。

「・・犬夜叉は首尾よくその霊剣ていうのを手に入れられるかな」
「かごめ様がついています。きっと大丈夫でしょう。しかし間に合うか」

 とうとう音をあげて、二人は消えかかった焚き火の周りに起き直り、埋み火をかきおこした。荒い息遣いが聞こえてくる。たびたび折り返されるらしい激痛に耐えている気配を感じるのは、かたわらにいる者にもなかなかの試練だった。

「ねえ、法師さま、何か少しの間でも楽にさせてあげられるようなら―――」

 珊瑚が何かいいかけたときだった。ふいに後ろのほうでビシッ、という嫌な音がした。ビシビシッ、パリッ、ビシッ・・・・

「何、あれ・・何かヒビ割れる音・・?」
「・・・殺生丸、まさか」

 はっとなった弥勒が奥の殺生丸の元へ急いで近づいた。珊瑚があわてて後に続いた。
「・・・・・・・くっ、これは」

 牙で作られた妖力をそなえた鎧――殺生丸の身にまとっている鎧に亀裂が入っていた。二人の見ている目の前で、まるで何かにからめとられて締め上げられているように、鎧は不気味な音をたててヒビが入っていき、あっと思った次の瞬間、それは欠片に砕けて横たわる白い体のまわりに粉々に飛び散った。

「あ・・・っつ、うっ」

 たちまちたちのぼる妖しい霊気は骨も砕けよとばかり獲物の全身を締めつけ、締め上げられた殺生丸があまりの苦しさに身を揉んで激痛からのがれようと悲痛に体をよじった。

「殺生丸!」
「・・・っ」

 さからう獲物の反応を楽しむように、縛妖索が忌まわしい金色に光り、一層息もできぬほどしめつけられて、さすがの殺生丸も体を折って声も出せぬまま喉をかきむしってあえいだ。血の気のひいた顔に冷たい汗が浮かんだ。

「くそ、なんてことを」

 せめても呼吸を楽にさせようと衿元を開かせてやりながら、弥勒がののしった。

「一思いに殺せとは言わないが、こうも邪悪な代物は初めてだ、獲物をいたぶって楽しんでやがる」

 まさしくそのとおり、と縛妖索が口にしたわけではないが、起こったことはまさにその通りであった。邪悪な綱がまたひときわ輝いたと思うと、殺生丸の美しい顔が苦痛にゆがみ、何かから守ろうというように自分の体を抱きしめて身を折った。ミシッ、という肋骨の折れるぞっとするような音がして、その蒼ざめた唇から血がこぼれ、白い毛皮が血に染まった。珊瑚が息を呑んだ。

 血は止まらなかった。殺生丸が体を折って続けざまに激しく咳き込み、鮮血はいっそう目に沁みるような真紅の花びらのようにその白い袖を濡らし、毛皮の上に舞い散った。

「ひどい、もうやめて、ひどすぎる」

 真っ青になった珊瑚の表情を見て、弥勒が声をかけた。

「珊瑚、すまんが犬夜叉がまだ来ないかどうか、少しその辺りまで様子を見てきてくれんか。それと少し薪を足して火を強くしてくれると助かる」
「法師さま」
「・・・行ってくれ、珊瑚、おなごの見るものではない」
「・・・・・」

 火のほうへ向かう珊瑚の背を弥勒は痛ましそうに見やった。可哀そうに、珊瑚は弟の琥珀の血まみれの様相を思い出しているのだろう。心優しい姉として己が弟の悲痛なさまを身近に知っている珊瑚には、今の犬夜叉の兄のあまりな苦しみようは自分のことのように耐えがたかったに違いない。

(ちくしょうめ、犬夜叉はまだなのか、遅すぎる)

 どうしようもなく手をつかねて、この有様を見ているほうも神経をすり減らす作業であった。殺生丸がまた苦しがって激しく咳き込み、押さえた口元から洩れる血が袖口を赤く染めた

「・・・火のそばへ移りましょう。いくらかでも暖めたほうがいい」

 弥勒はこわばった体をそっと抱き上げて火のそばへと横にならせた。先にここへ運んだときもそうだったが、殺生丸の体はまるで天女がその身に纏うという羽衣さながらに軽くて、およそこの世のものとも思われなかった。

(かすみを食べて生きているわけではあるまいに、いったいこの体は何で出来ているのやら)

 常に身を持すること高く凛として、松籟に羽を休める白い若鷹のようであったその姿は、今は手折られた冷艶な梨花の一枝にも似ていた。銀色の頭が毛皮に伏せられ、のどの奥で苦しい咳を押さえ込もうとしている様子が残酷なまでに痛々しかった。

(殺生丸)

 呼んだ声に応えるように、横たわった殺生丸が苦しげに寝返りを打ち、額に冷たい汗がにじんでいる様子を見てその肩にふれた弥勒は眉をしかめた。 

(体が、冷たくなっている)

 急激に妖力を奪われ、衰弱した体は熱を保つのが難しくなっているのに違いない。弥勒は袈裟を脱いでその体にかけてやったが、殺生丸は苦痛をかみ殺すように目をきつく閉じたまま、声もたてず、払いのけることすらしなかった。誇りたかい殺生丸が、人間の手にふれられ、あまつさえ衣などかけられて逆らうこともしないのが、いっそうその衰弱ぶりを際立たせた。
 口のはしについた血をぬぐってやろうと、殺生丸から目を離して懐を探していたとき、とつぜん後ろでたまぎる悲鳴があがった。

「七宝!何をしているッ」

 文字通り泡を食って、弥勒は七宝を体ごと殺生丸のそばから引ったくり取った。獲物を捕らえそこねた金色の綱がいまいましげに薄く光るのが見えた。

「バカ、お前、いったい何をして、」

 驚愕のあまりほとんど腹を立てて弥勒は七宝を怒鳴りつけた。

「妖怪のお前がふれたらどうなるか見てわからないのか、なんてことをする!」
「おら――おら、ちょっとだけ汗をふいてやろうと思って、あんまり苦しそうじゃったから・・・・」

 泣きべそをかきながら、七宝が言った。その手から白い煙が上がっている。

「手を見せてみな、こりゃひどい、すぐ引き離したんだが」
「・・・もし弥勒が引き離してくれんかったら、おら、あのまま巻きつかれて死んどったかもしれん」
「当たり前だ、殺生丸ほどの妖力の使い手でさえ、あの有様なんだぞ、子狐のお前なんぞ一撃であの世行きだ。まぬがれたのが不思議なくらいだ」
「すまん・・・」
「まあ、いい」

 しょんぼりしてしまった七宝を見て、弥勒はため息をついた。

「外で珊瑚に手当てしてもらえ。七宝、お前は兄上のそばには寄らないほうがいい」
「・・・・さっき、殺生丸にさわったとき、ほんのちょっとだったのに、まるで焼けた火箸をおしつけられたみたいじゃった。殺生丸は、ずっとあれを我慢しておるのかのう・・」

 ぽつりと七宝がつぶやいた。

「・・・お前は、もう寝てな」

 何も聞かなかったかのように背を向けて弥勒は云った。目の前の犬夜叉の兄が、焼けた鉄を押しあてられたような目にあわされながら、声もたてずにそれに耐えていることを思うと胸がつまった。縛妖索の責めは非情をきわめていた。明らかにこの妖しの綱は獲物が苦しみ悶えることに残忍な喜悦を感じているようであった。

(くそっ、犬夜叉、何してやがる。兄上はもう限界だぞ、見ろ、天生牙が)

 今なお殺生丸が持ちこたえている唯一の理由である腰の天生牙は、まだ折れてはいなかったが、弥勒の鋭い目が気づいたように、今やその鞘にはクモの巣のような小さな薄いヒビが少しずつ入り始めて、なおも広がりつつあった。もしも鎧と同じく鞘が砕け、中の天生牙が折れたらすべては終わりだろう。                                             
(そうなる前に、犬夜叉、お前が帰ってこなければ)
 不安と焦慮に外をみやって、弥勒は内心でつぶやいた。

 ふと気づくと咳の音は途絶えて、かたわらの殺生丸は眠っているようだった。少しは楽になったのか、縛妖索の締め付けがいくらかゆるみでもしたか、それとも――

(!)

 弥勒は飛び起きて、殺生丸の肩を抱き上げた。月さながら銀白色の乱れ髪がいっそ凄艶に、その頭は力なくあおのいただけで、憔悴した美しいそのおもてはピクリともしなかった。  
                    
 (兄上、これはいかん)

 嘲笑するように縛妖索が光った。先ほどまでのせわしい呼吸の音すら、ほとんど聞こえなくなっていた。殺生丸が力尽きかけているのか・・

(くそっ)

 いきなり弥勒はその体を膝に抱え起こすと、その頬に荒っぽく平手打ちを食わせた。

「兄上、しっかりなさい、それでも西国随一といわれた大妖怪の末裔か」

 荒々しく体ごと揺り起こして、弥勒はまたその頬を叩いた。

「目を覚まして、負けてはだめだ。兄上、しっかりして、誇りたかい父君の直系ともあろう身がこんなところで倒れてどうする、気をしっかり持って、さあ」

 もう一度手荒くその頬をたたいた途端、誰かの手が自分の腕にかかるのを感じた。

「・・・き、さま・・・」

 怒りのあまり、わずかに残った力をふるいおこして、殺生丸がかろうじて薄目を開け、無礼な相手の手をはらいのけようとかすかに動いた。

「・・・無礼・・・・」
「無礼で結構、さあ、お気をたしかに」
「・・・殺してやる・・・・」

 切れ切れに息を吐きながら、殺生丸が切歯してうめいた。弥勒は意に介さなかった。

「あなたが無事生き延びたら喜んで殺されてあげますよ。もうじき犬夜叉が来る、それまで何とか持ちこたえねば、だめです目を閉じないで、兄上!」

 自分の気持ちをおさえて、弥勒はまた頬をかるく引っぱたき、叩かれた顔がその向きへ力なくゆれた。殺生丸が心底から苦しそうに眉を寄せて呻いた。

「しっかりして、さあ、私を殺すのではなかったのか、このまま人間ごときの腕に抱かれて死んでゆく気か、殺生丸!」
「う・・・・」

 弥勒の手荒なやり方はたしかに効いて、殺生丸はかろうじて息を吹き返したように見えた。きわどいところであった。

「苦しいでしょうが、もう少しだけ、持ちこたえて下さい、頼みます」

 真実、頼むような気持ちで弥勒はつぶやいた。もはや祈るくらいしか手はなかった。ふれた頬は雪のように冷たく透きとおるように白く、いまだ縛妖索にからみつかれたままの右手もまた同様であった。幾分苦しそうな息遣いが聞こえてはきたが、それは先ほどよりもずっと弱々しくなっていた。火の側にいるというのに殺生丸の体は冷え切って、まばたきすることすらつらそうに見えた。

 弥勒はその背に寄り添って後ろから体を抱き寄せ、せめてもその身を温めようと試みた。こんなときだというのに雪白の髪だけはなめらかな絹のように毛皮の上に流れ、その髪がつややかに美しい分だけ、その持ち主の憔悴ぶりがいっそう目立った。まるで氷柱を抱いているようだ、と弥勒は思った。

                   * * *            
 (父上)

 殺生丸は夢を見ていた。本性たる化け犬の雄姿をあらわした父は横たわって首をもたげ、どこか遠くを見つめている。仔犬姿の自分はそのふところに抱かれ、顔をあげて父の見つめる方向の匂いを読み取ろうとしているのだった。見上げる父の口元をなめようと首を伸ばすと、父がこちらを見て自分の顔をそっとなめまわす。自分はその鼻面にじゃれかかり、ふところから出ようとすると、父はそっと鼻面で押して自分をふところに押し戻してしまう。父のふところはなんともいえず温かく心地よく、ふれた背中がぼんやりと熱かった。

(父上)
(暖かい)
(なんと暖かいのだろう・・)
(父上・・・)

 せきあげてくる苦しい痛みに、殺生丸は薄目を開けた。目の前に焚き火がくすぶっているのが見える。父ではなかった。誰かが背中にぴったり寄り添って、体ごと自分を温めようとしているのだった。

(・・・)

 それが誰だろうと考える力さえ残っていなかった。

(もうじき犬夜叉が来る、それまで持ちこたえて)

 だれかがそう言っていたのが漠然と耳に残っていた。それでは少なくとも犬夜叉は死んではいないのだ。犬夜叉、あの頼りない半妖の弟はどうにかこのワナを避けられたのか。

(犬夜叉)

 それをいいとも悪いとも考えることはできなかった。ただそうと心に思い浮かべるだけで、何とはない不思議な安心感が身をひたした。

 (鵜飼はいとおしや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結い
    現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん)

 りんが意味も知らず歌う声が聞こえる。りんはいったいどこでこんな古い歌など覚えてきたろう。

  (ねえ、殺生丸さま、ウカイってなあに、ウってなあに)
  (なんじゃ、この物知らずの小娘め、鵜飼いも知らんのか)
  (邪見さま、知ってるの?!)
  (あったり前じゃわい、鵜飼いというのは夜、かがり火を焚いてじゃな、その下で鳥を使って
   じゃ・・)
  (すごーい、りん見てみたい)
  (何を言っとるか、つまらんことで殺生丸さまのお邪魔をするでない。なんでお前のために鵜飼
   い見物なんぞ)
  (えーっ、そうなの・・見てみたかったなあ、ウってどんな鳥なのかなあ。かがり火ってきれい
   なのかなあ)

(・・・りん)

 見せてやってもよかった・・・もう二度と見せてやれる機会はないだろう。りん・・・りん・・・

(もう、目がかすむ・・・・・・)
(―――もう・・・・・・・)
(息が―――)

 遠くでかすかな声が聞こえるような気がしたが、もうすべての想いは潮騒のように遠くはるかに押し流されていくようであった。腰まで届く豊かな銀白色の髪があたりにふりこぼれ、殺生丸の美しい蒼白な顔が血に染まった毛皮の上で、折りとられた花のように力なく傾いた。

「・・・殺生丸?」

 愕然として気づいた弥勒が飛びついて抱き上げた。だが必死にゆり起こしても、犬夜叉の兄はもう目を開かなかった。投げ出された腕が人形のように力なくわきへ垂れ下がった。

「殺生丸ッ、しっかりしろ、兄上、死ぬな、いま犬夜叉が、死ぬな、兄上ーッ!」

 弥勒の悲痛な呼びかけが岩屋中に響き渡ったとき、

「殺生丸、殺生丸ーッ、間に合ったかッ」

 雲母から転がり落ちるように、緋色の衣をひるがえした犬夜叉がこちらへ飛んで来、その後ろに霊剣をかかえたかごめが必死に走ってくるのが見えた。

「殺生丸、弥勒、間に合ったか、霊剣を持ってきた、弥勒・・」
「・・・・・・・・・」

 勢い込んで飛び込んできた犬夜叉が、何かにぶつかったように足をとめた。身動きもせず横たわる兄のわきで、弥勒が茫然とすわっていた。

「・・・弥勒・・まさか」

 弥勒がふりかえって何か言おうとしたとき、犬夜叉を押しのけて飛び込んできたかごめが勢いよくさえぎった。

「法師さま、どいてっ、犬夜叉さがってて、何よ、本物の妖怪がそう簡単に死ぬわけないじゃない、絶対に死なせやしないわ」
「かごめ様」
「かごめ」
「かごめちゃん」

 皆が息を呑んで見守るなかを、かごめはセーラー服のすそをひるがえして殺生丸のかたわらにひざをついた。霊剣を鞘から引き抜いたとたん、岩屋の中は白い霊気に満ちあふれて、剣の刃はまばゆい光を帯びて輝いた。

「殺生丸、あきらめないで、あたしが絶対助けてみせる、犬夜叉のために、絶対に助けるんだから!」
「かごめ!」
「下がってて、犬夜叉、みんな」

 縛妖索はいまだ残酷に殺生丸ののどにからみつき、そこから伸びて右腕の手首に巻きついたままだった。微動だにせぬ兄の右腕を引き出すと、綱はおびやかすように怪しくも邪悪な黄金色にくるめいた。
 かごめはひるまなかった。

(犬夜叉のお兄さんを死なせたりしない、犬夜叉を一人ぼっちにさせたりしないわ、こんなもの、こうしてやる!)
 
 果敢に両手につかんだ霊剣をふりあげ、かごめは裂帛の気合とともに振り下ろした!

 縛妖索に当たった瞬間、霊剣は光を放ち、縛妖索はそれに抗して、一瞬、二つの力は拮抗し、激烈にせめぎあうかと見えた。だが霊剣の力は紛れもなかった。縛妖索が忌々しげに光ったが、そこまでだった。
 次の瞬間、殺生丸ののどと手首をつなぐ災いの綱――縛妖索は、真っ二つに切り落とされていた。切られた端からさらさらと綱は金色の砂のように溶けてくずれ、やがてあれほどむごく喉元や手首に巻きついていたそれは、皆の見ている前で端から金色の煙となってたちのぼり、そして消えてしまったのだった。

「・・消、えた―――」
「消えてしもうた」
「あ・・・・」

 かごめは剣を手にしたまま、その場にへなへなと座りこんだ。

「かごめちゃん、しっかり」

 珊瑚があわてて後ろから肩を支えた。

「鞘・・・鞘はどこ」

 かごめはふらつきながら、手探りで鞘をつかみ、霊剣をそれにおさめた。中はいちどきに暗くなって、焚き火の光だけが眠るような白い兄の横顔を照らし出した。

 めったにないことだが犬夜叉がかごめを押しのけて兄のわきに駆け寄り、肩ごと頭を抱き上げた。

「殺生丸、おいっ、しっかりしろ、あのイヤったらしい綱は消えちまった、もう大丈夫だ、どうした、殺生丸、息をしろ、目を開けやがれ、殺生丸、殺生丸ーッ」

 兄は、依然として目を開かぬ。その美しいおもてはまるで眠っているようで、喉に残った焼きごてを当てられたような傷跡がくっきりと痛々しかった。いつもあれほど冷たく皮肉でつれない兄なのに、こうして目を閉じて横たわっていると、その端麗な横顔は優しく慕わしく、哀しいくらい懐かしく思われた。

「殺生丸・・・」
(ばかやろう、死ぬんじゃねえ。死なれてたまるか、おれにこんな借りを作らせといて、そのまま一人で行っちまおうってのか。そんな、そんなの、ずるいじゃねえか。ちくしょうッ)
(おれはイヤだ、こんなの、こんなことって許せねえ、こんなの許せねえよ!)

 犬夜叉は、いきなりその白い頭を抱え寄せると、自らその冷たい唇に口付けて息を吹き込んだ。

(しっかりしろ、目を覚ませ、殺生丸!)
(おやじ、頼む、まだ連れて行くな、殺生丸を連れて行かないでくれ)
(殺生丸・・・・殺生丸!)
「・・・犬夜叉」

 人間たちは、息を詰めて犬夜叉の必死の様子を見守っていた。並みの妖怪ならもはや手遅れかもしれないが、殺生丸は純血種の妖怪であり、それも妖怪の中でも最強を誇る大妖怪の血をひく身であった。助かるかもしれず、助からないかもしれない。それはもはや人間たちの手の届かぬ領域であった。

「かごめ様、我々は外へ出ましょう。霊剣をそばから離さないと、犬夜叉の負担になる」
 弥勒がひくくささやいた。
「そう、そうね」

 気がかりそうに後姿をふりかえりつつも、かごめたちは二人を残して岩屋を出た。明けの明星が空にきらめいている。じき夜明けであった。


            * * *  
 殺生丸は、白い雲の上を一人飛び駆けていた。何も振り返ることもなく、引き止める何者もこの世にないように思われた。

(・・・殺生丸)

 誰かがしきりに呼ぶ声がする。殺生丸はいらだった。

(なぜ呼び返す、わずらわしい)
(私はこのまま行ってしまいたいというのに)
(殺生丸・・・殺生丸・・帰ってこい・・帰れ・・・殺生丸!)

 叫ぶ声はいっそうしつこくなり、自分を激しくひきとめるように思われた。

(なぜ呼ぶ・・・なぜ帰らねばならぬ・・・父上)

 ふいに温かな腕が自分を抱き寄せ、その背を軽く押すのがわかった。

(行くがいい、殺生丸。まだここへ来るのは早すぎる)
(だれ・・・だれだ・・・・父上・・?)
(行け・・・殺生丸、さあ)

 優しいその手が自分の背中を押し、突然白い扉が光って殺生丸の意識は混濁した。

「・・・殺生丸、目を覚ませ、殺生丸」

 何度目か、体を起こして、また犬夜叉が息を吹き込もうとその唇にくちづけたときだった。

「-―――!」

 突然、その口の中にかすかな息が感じられ、腕の中の心臓がトクンとひとつ脈打つのがわかった。

(――殺生丸?)

 トクン・・トクン・・・トクン・・・脈は続いた。かすかな振動が抱きしめた腕にひびいて来、ふれあったままの唇にゆっくりとだが、わずかながら温かさが戻ってきたように思われた。

(あ・・・・・)

 柔らかく、かすかではあったが、兄の息づかいが口の中に感じられてくる。その息遣いは徐々に熱を帯び、顔色にわずかに生色が戻ってきた。

(殺生丸・・・・息が・・・戻って)

「殺生丸・・・・殺生丸?」

 ほとんど信じられぬように、犬夜叉は小さな声で兄の名をささやいた。兄の目が初めて薄く開いて、伏せた濃い睫毛のかげから、あの澄んだ琥珀色のひとみが自分をみつめるのが見えた。その体を抱いたままの犬夜叉の腕はおさえかねた激情に震えていた。

「・・・この馬鹿野郎、ひ、ひとにこんな思いをさせやがって」

 弟はいきなり顔を伏せて、長い白い髪に隠してしまった。

「・・・犬夜叉・・・泣いているのか」

 のどにからんだ、ほとんど聞き取り難いようなかすれ声で、殺生丸はささやいた。

「・・・ばかやろう、泣いてなんざねえよ。てめえなんか―――てめえなんか」

 突然胸もつぶれんばかりに抱きしめられて、殺生丸はかすかにうめいて目を閉じた。痛みはまだ残っていたが、抱かれた腕は夢の中の父のそれにも似て、優しく温かだった。



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