縛妖索 五章 (一)


 

 門の外で雲母を帰すと、二人は牛頭馬頭にもさえぎられることなく、やすやすと火の国の門を通って中へ入った。たちこめる白い霧の中に、巨大な鎧をつけた白骨――兄弟たちの父の姿が見えてくる。

 犬夜叉は兄の体を抱いて、父の遺骸の正面にそびえる岩の上にとび降りた。骨ばかりの妖鳥がまた空へと戻っていく。兄の背なに広がるふんわりとなめらかな純白の毛皮をそっとよせると、犬夜叉は殺生丸の体をそこへ横たえ、頭を自分の膝にのせて、顔にかかる髪をそっとかきのけた。

「・・・これから、どうすりゃいいんだ」

ぽつんと彼はつぶやいた。考えてみれば、ここへ来てから何をすればいいのか、犬夜叉はまったく知らないのだった。殺生丸はひっそりと華奢な人形のように声もたてず、ただされるままにそばへよこたわっているきりだった。犬夜叉は不安に追いつめられた表情のまま、顔を上げて父の巨大な姿を見つめた。
 親父よ、見てのとおりだ。今の殺生丸はおれの手にゃ負えねえ、助けてくれ、どうすればいいか教えてくれ。

 偉大な父の奥つ城は白い霧に囲まれて、かすかになつかしい花の香りがした。

(親父・・・・頼むよ・・・・)

(ああ―――なんだかあったかい。ここ、こんなにあったかいところだったかなあ)

(毛皮がふかふかだ。なんていい匂いだろう――殺生丸、お前の匂いか・・・これ・・)

(殺生丸・・・少しは眠れそうか・・・・返事しろ・・・・殺生丸・・・殺生・・・丸・・・)

互いにもたれあって夢に引き込まれてゆく兄弟の体を、いつしか巨大な化け犬めいた形をした透きとおる何者かがそっとふところに包みこみ、ふさふさした尾に巻き込んで優しい金色の瞳でそっとのぞきこむ。眠る殺生丸の土気色をした頬に、徐々に血の色が戻ってくるのが見えた。

 

(静かだ―――なんと静かなのだろう)

 殺生丸はぼんやりと考えた。こんな静けさは久しぶりだった。完全な静謐があたりを支配していた。彼は温かな湯にひたるように、うっとりとその静かさの中に浸っていた。

自分では気がついていなかったが、ずたずたになった神経はほんのささいな外部の刺激にもひどく敏感になっていた。だれかの話しかける言葉はもとより、何心ない木々のざわめき、遠くの鳥の声、風のそよぎの音にすら、ほとんど神経をやすりでこすられるような苦痛を感じ続けていたので、今このどことも知れぬ完全な無音の空間に横たわって、殺生丸は初めて安らいだ気持ちになり、内心の吹き荒れる嵐が静まるのを感じた。

ここはあの世とこの世の境――外界と完全に切り離された世界であった。今、殺生丸の傷ついた心につけられている薬は死の静寂であった。一歩間違えば死に至る危険な劇薬だが、効き目はたしかだった。殺生丸が何よりも必要としていた静けさ、安息のすべてがここにあった。

しんとした時間が流れてゆく。絶えまなく心をいらだたせていたトゲのようなピリピリした痛みは少しずつ消えてゆき、もとのゆとりと自然な感覚を少しずつ取り戻してゆくのが感じられる。

かたわらに、何か温かい誰かが寄り添っているのが感じられた。殺生丸はそのほうに頬をよせて、無意識に腕の中へと抱きこんだ。

 疲労と心身の打撃は、あたたかな誰かのふところに横たえられて、いつしか殺生丸の心の外側を滑り落ち、内から湧き出てくる妖力がそのあとに新しい、傷一つない肌を作り出してゆく。心は透明な水晶よりも冷たく澄みきって、その魂はようやくすべてを忘れ、もとの沈着で何者にも動じない純血の妖怪の心を取り戻しつつあった。

 

「・・・・・・・」

 何かがごそごそと頭の下で動くような感触がして、殺生丸は目を開けた。最初に目に入ったのは薄い灰色の空と飛び回る骨ばかりの鳥たちの姿、そしてのぞきこむ自分に良く似た銀髪を光輪のようにうつした犬耳のほんやりした輪郭だった。

「・・・殺生丸」

 殺生丸はまばたきした。ずっとかぶせられていた目隠しが突然はずされたような心地だった。ひどく衰えていた妖力のせいで感じなかった敏感な鼻に、ありとあらゆる匂いが滝のようになだれこみ、そのあまりの情報の多さに彼は少しめまいがして、また目を閉じた。

「殺生丸。気がついたのか」

「・・・・犬夜叉」

 目をつぶったまま、兄はささやいた。それから、またそっと目を開いてのぞきこむ人影を見た。きっぱりとした顔立ちの中の琥珀色のひとみが、心配そうに自分の顔を見おろしていた。

 おぼつかない表情で誰かを探すように、殺生丸は周囲に目をさまよわせた。犬夜叉がそれと察して、そっとその手を握った。

 「親父はいねえ。もう、いねえよ」

 「・・・ずっとここに?」

 「ああ」

 握った手を放そうともせず、犬夜叉はつぶやいた。

 「ずっとここにいた。親父もいたんだと思う。わからねえけどな。けど温かかったから、たぶん・・・」

 父の庇護の感触は殺生丸のほうが鮮明に覚えていた。そう、たぶん、犬夜叉の言うとおりなのだろう。だが、それなら、この頭の下にあるあたたかな感触はいったい誰のものなのだ?

 まだ体はよく動かせなかった。殺生丸がまた目を閉じてしまいそうになったので、犬夜叉はまた不安そうに話しかけた。

 「その―――気分どうだ」

 返事の代わりに、兄の手が触れる自分の手をそっと握り返したので、犬夜叉は柄にもなく狼狽して耳をぴくつかせた。

 「せ、殺生丸・・」

 「・・・・」

 兄は何も言わぬ。弟も何もいえなかった。ただふれあう二人の手の中だけが熱かった。

 



 


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