兄の微笑に閉口して、犬夜叉はその肩をつかんでそっと体から離した。
「笑いごとじゃすまねえぞ。てめえは何でそう自分のことを軽く考えられるんだ。おれにまかせてどうなっちまっても、おれは責任とれねえよ」
「子ができるわけでもあるまい」
「ま、まじめに聞けってば、いいか、お、おれだってな、おれだってその、何をどうするかくらいはわかってんだぞ。こんな一人で立てないほど弱ってるくせに、殺しちまうかもしれねえじゃねーか」
困惑した弟の問いかけに、相手の紅潮した頬に手を伸ばして軽く触れながら、兄はやさしく云った。
「死なぬよ。死にはせぬ・・・身体はな」
「・・・・・・・・」
ずきりと心を突き刺すような言葉であった。あくまで平静で顔色も変えぬだけに、兄の内心の苦衷が察せられた。
(身体は死なぬ。死にはせぬ。だがもしお前が拒むなら、心は・・・)
「殺生丸」
犬夜叉は目をつぶって、その体を強くひきよせた。長い袂が滑りおちて、むき出しの白い腕が緋色の狩衣の背にかかる。兄がもう一度だけ、聞き取れないような小さな声で言った。
「犬夜叉・・・頼む」
答える代わりに相手の頭を片手に支え、犬夜叉は白い体をそっと地面に押し倒した。すべらかな銀色の髪が広がり、背にかかる兄の手が衣をつかむ。二人のくちびるがふれあった。
「犬夜叉―――」
「もういい、もう何もいうな」
犬夜叉はささやいた。その手が兄の冷たい頬にそっとふれる。やつれ果てていっそ凄艶なさまとも見える兄の様子に、弟がどこまで心動かされたかはわからない。だが殺生丸の気性を知る犬夜叉は、もうそれ以上兄に懇願させるのに忍びなかった。
「何もいうんじゃねえ―――おれが、忘れさせてやる」
髪に手を入れて頭ごと引き寄せられ、殺生丸は目を閉じてその不器用な口づけを受けとめた。たどたどしい手つきが帯を解いてゆき、やがてはだけた首すじから胸元へと指がすべり始めるのがわかる。ぎこちなく、だがあくまで優しい、いたわるようなしぐさであった。殺生丸は背に伸ばした指先にそっと力をこめた。
それは短いが優艶な、十分に心のこもった交歓であった。
確かに犬夜叉は不器用だったかもしれないが、しかし相手が本当に必要としているのが何であるかということはちゃんとわかっていたに違いない。
おぼつかなげな、だがあたう限りの優しさをこめて犬夜叉のくちびるが耳元からうなじの上をそっとなぞってゆく。殺生丸は、自分が受け止められ、求められ、優しく愛撫され、大切にされていることを感じ、しなやかな体をそらせるたびに、甘く繊細な感覚が体のうちを塗り替えてゆくのを感じた。それはあの妖怪たちの残酷きわまるやり方で無理強いに引きずり出されたあの無残な快楽とはまったく異なる、静かで官能的な歓びの予感であった。
犬夜叉の抑えた荒い息使いが聞こえてくる。その体がこらえきれぬ激情に焦がれて揺れ、動かされるたび体を重ねている兄ののどから、ため息にも似たかすかな吐息がしぼり出される。おおいかぶさった肌が次第に熱くなり、その動きはもはや殺生丸にもとめられないほどに激しく情熱的になってゆく。兄はそれを止めようともせずされるにまかせ、悦楽の波が次第に高まるにつれて、犬夜叉が自分を呼ぶ声にかすかにこたえようとした。
かすれたあえぎが口をついて出るのを、殺生丸がくちびるをかんで押し殺そうとする。その口元を犬夜叉のそれがつとふさぎ、甘やかな舌先が割りこんであえぎ声もろとも優しくからめとる。
不慣れでつたなくはあったし、多分はたから見れば幾分ままごとめいた可憐な愛の交わし方といえたかもしれない。だが殺生丸の渇いて疲れ果てた心に水をそそぎ、その心をよみがえらせるにはそれで十分であった。
激しい最後の瞬間を通り過ぎたあとの急激な眠りにひきこまれながら、犬夜叉はその手ごたえを確かに感じたし、今はそれ以上に望むものは何もなかった。
(殺生丸)
(犬夜叉―――)
眠りに落ちる直前、兄が始めから最後まで自分のほとんどどんな行為にも抗わなかったことに犬夜叉は気がついた。
* * * *
(・・・くすぐったい)
ぼんやりと犬夜叉は思った。だれかが自分の口元を優しく舐めているのだった。その感覚は不思議に自然で懐かしくここちよかった。甘やかに丁寧に柔らかな舌がそっとくちびるをなめまわし、鼻面にふれてくる。
(だれ・・・・親父?)
漠然と犬夜叉は顔も知らぬ父を思い浮かべたが、そうではなかった。兄殺生丸が、優しく自分の唇をそっとなめているのだった。それはいかにも兄弟らしいこまやかな情愛のこもったしぐさ、純血の妖怪たる化け犬一族ならではの、親密な愛情を示すしぐさであった。
(殺生丸)
思いがけない兄の濃やかな愛情深さが何より嬉しかった。いかにも犬族らしいこの上なく甘美なその愛撫をうっとりと感じながら、犬夜叉はしばらくウトウトしていた。薄目をあけると、目を伏せた殺生丸の長いまつげがすぐそばに見える。まぶたのふちにまばゆい紅を刷いて、さらさらとすべる銀髪に透ける白い頬の薄桃色の印がどきりとするような妖艶さであった。