(落ち着け)
殺生丸は自分に言い聞かせた。
(これは、妖怪どもではない)
(さっき私にふれた腕も、妖怪のものではない)
(あれは、犬夜叉だ―――)
(そうだ、妖怪たちは死んだ。もう二度と悪夢を見ることはない)
(もう二度と縛妖索にからめとられることはない)
(私を父の元へ運ぼうとしているのは、妖怪ではない)
(もちろん違う。あれは犬夜叉だ)
心の傷口にささったトゲを抜くのは苦しい作業だったが、殺生丸はしんぼうづよく自らの心と自問自答を繰り返し、刺さったトゲをひとつずつ抜いていった。きつい美貌に影がさし、汗が額の三日月の上を流れ落ちた。
(私の手にふれるのは、妖怪の舌などではない)
(もちろんそうだ。妖怪どもは死んだ。二度と私に触れたりはせぬ)
(これは、ただの猫だ)
(そう、ただの猫だ。そして、あれは、犬夜叉だ)
自分自身の理不尽な感情と闘うのは、十倍の数の敵と闘うよりもはるかに殺生丸を消耗させた。彼はかたく目をつぶって、なおも自分に言い聞かせようと苦痛な努力を続けた。
「・・・殺生丸」
気がつくと、少し離れたところから、犬夜叉がこちらを見ていた。半ば気を失っていたらしかった。
「少し、落ち着いたか」
「・・・ああ」
「だいじょうぶか――近づいても」
「ああ・・・」
まだ半信半疑のまま、犬夜叉はそっと兄に近づいた。殺生丸がうつむいていた顔を上げ、
乱れた髪が額にかかり、犬夜叉はそのあまりのやつれようにはっとなった。
「殺生丸。いったい何をして・・・」
「少し、考えごとを」
声だけは、あの聞き慣れた、冷たく静かで感情をおもてにあらわさぬそれであった。
「ばかな、つまらねえこと考えるんじゃねえ」
「・・・・・」
「縛妖索の見せた悪夢だ。夢だ、夢に過ぎねえ。あんなものみんな忘れちまえ」
「犬夜叉・・・」
「忘れちまえ」
犬夜叉は語気荒くそういって、相手の体を荒っぽく抱き寄せた。殺生丸は逆らいもしなかった。もう抵抗するだけの気力も残っていなかった。だが、残った内心のトゲは抜けきれていないことは、本人が一番よくわかっていた。力なくその頭を犬夜叉の肩にもたせかけたまま、殺生丸はささやいた。
「犬夜叉。この兄に、手を貸せるか」
「おれにできることならな。どうしてほしいんだ」
返事の代わりに、殺生丸はそっと手を伸ばして、相手の顔を引き寄せた。
「せ、殺生丸―――」
兄の唇が、弟のそれの上をかるくすべった。犬夜叉の全身を電流が走った。
「馬鹿―――何考えてやがる・・・」
「力を貸せ、犬夜叉。兄一人では、切り抜けられぬ。お前の助けが必要だ――」
さしも初心な犬夜叉にも、相手の言いたいことはわかった。
「ば、バカなこと言うんじゃねえ、なんだってそんなことを」
「貸せぬか」
「そうじゃねえ、だから」
犬夜叉の顔は着ている緋の衣よりも真っ赤になった。
「だって、自分の言っていることがわかってるのか、」
「抱いてくれとひざまずいて頼めと言いたいのか」
「馬鹿野郎ッ、誰がそんなこと言ってる。第一、そんなことをして一体何になるというんだ」
「私がお前を欲しいからとでも、疲れているからとでも、気まぐれとでも――ただ、眠りたいからとでも」
「殺生丸」
抱きしめた腕をいっそう強くして、犬夜叉がつぶやいた。
「・・・悪夢を忘れるための、荒療治ってのか。荒療治にしても度が過ぎる」
「毒には毒をもって制するほうがいい・・・それに荒療治のほうが効き目が早い」
「ば、かやろう―――死んじまうぞ。こんな体で」
かすれた声で、犬夜叉はささやいた。
「試してみろ」
「ふ、ふざけんな、そ、それに、できねえよ、おれは、その」
「――いやか」
「違う、だって、だから、おれはその、やったことねーよ、そんなこと、お、男とだって女とだってやったことねーんだ、その、」
「ちょうどいい。兄が房事の手ほどきをしてくれる」
「軽口たたいてんじゃねー、こんなときに」
兄の微笑に閉口して、犬夜叉はその肩をつかんでそっと体から離した。