縛妖索 四章 (2)


(落ち着け)

殺生丸は自分に言い聞かせた。

(これは、妖怪どもではない)

(さっき私にふれた腕も、妖怪のものではない)

(あれは、犬夜叉だ―――)

(そうだ、妖怪たちは死んだ。もう二度と悪夢を見ることはない)

(もう二度と縛妖索にからめとられることはない)

(私を父の元へ運ぼうとしているのは、妖怪ではない)

(もちろん違う。あれは犬夜叉だ)

 心の傷口にささったトゲを抜くのは苦しい作業だったが、殺生丸はしんぼうづよく自らの心と自問自答を繰り返し、刺さったトゲをひとつずつ抜いていった。きつい美貌に影がさし、汗が額の三日月の上を流れ落ちた。

(私の手にふれるのは、妖怪の舌などではない)

(もちろんそうだ。妖怪どもは死んだ。二度と私に触れたりはせぬ)

(これは、ただの猫だ)

(そう、ただの猫だ。そして、あれは、犬夜叉だ)

自分自身の理不尽な感情と闘うのは、十倍の数の敵と闘うよりもはるかに殺生丸を消耗させた。彼はかたく目をつぶって、なおも自分に言い聞かせようと苦痛な努力を続けた。

 

「・・・殺生丸」

 気がつくと、少し離れたところから、犬夜叉がこちらを見ていた。半ば気を失っていたらしかった。

「少し、落ち着いたか」

「・・・ああ」

「だいじょうぶか――近づいても」

「ああ・・・」

 まだ半信半疑のまま、犬夜叉はそっと兄に近づいた。殺生丸がうつむいていた顔を上げ、

乱れた髪が額にかかり、犬夜叉はそのあまりのやつれようにはっとなった。

「殺生丸。いったい何をして・・・」

「少し、考えごとを」

声だけは、あの聞き慣れた、冷たく静かで感情をおもてにあらわさぬそれであった。

「ばかな、つまらねえこと考えるんじゃねえ」

「・・・・・」

「縛妖索の見せた悪夢だ。夢だ、夢に過ぎねえ。あんなものみんな忘れちまえ」

「犬夜叉・・・」

「忘れちまえ」

犬夜叉は語気荒くそういって、相手の体を荒っぽく抱き寄せた。殺生丸は逆らいもしなかった。もう抵抗するだけの気力も残っていなかった。だが、残った内心のトゲは抜けきれていないことは、本人が一番よくわかっていた。力なくその頭を犬夜叉の肩にもたせかけたまま、殺生丸はささやいた。

「犬夜叉。この兄に、手を貸せるか」

「おれにできることならな。どうしてほしいんだ」

 返事の代わりに、殺生丸はそっと手を伸ばして、相手の顔を引き寄せた。

「せ、殺生丸―――」

 兄の唇が、弟のそれの上をかるくすべった。犬夜叉の全身を電流が走った。

「馬鹿―――何考えてやがる・・・」

「力を貸せ、犬夜叉。兄一人では、切り抜けられぬ。お前の助けが必要だ――」

 さしも初心な犬夜叉にも、相手の言いたいことはわかった。

「ば、バカなこと言うんじゃねえ、なんだってそんなことを」

「貸せぬか」

「そうじゃねえ、だから」

犬夜叉の顔は着ている緋の衣よりも真っ赤になった。

「だって、自分の言っていることがわかってるのか、」

「抱いてくれとひざまずいて頼めと言いたいのか」

「馬鹿野郎ッ、誰がそんなこと言ってる。第一、そんなことをして一体何になるというんだ」

「私がお前を欲しいからとでも、疲れているからとでも、気まぐれとでも――ただ、眠りたいからとでも」

「殺生丸」

 抱きしめた腕をいっそう強くして、犬夜叉がつぶやいた。

「・・・悪夢を忘れるための、荒療治ってのか。荒療治にしても度が過ぎる」

「毒には毒をもって制するほうがいい・・・それに荒療治のほうが効き目が早い」

「ば、かやろう―――死んじまうぞ。こんな体で」

 かすれた声で、犬夜叉はささやいた。

「試してみろ」

「ふ、ふざけんな、そ、それに、できねえよ、おれは、その」

「――いやか」

「違う、だって、だから、おれはその、やったことねーよ、そんなこと、お、男とだって女とだってやったことねーんだ、その、」

「ちょうどいい。兄が房事の手ほどきをしてくれる」

「軽口たたいてんじゃねー、こんなときに」

 兄の微笑に閉口して、犬夜叉はその肩をつかんでそっと体から離した。

 

 


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