「あっ、おい、こらっ、待たねえか!」
妖怪はとびついて引き倒し、舌を噛ませまいとその口の中に手を突っ込んだ。白い体は半ば錯乱状態で狂ったようにもがいて暴れ、妖怪はあわてて体重ごとのしかかって相手をおさえこんだ。
「ばかやろう、何しやがる、落ち着け、おい、落ち着けったら、待たねえか、おちつけ、落ち着けって」
もがいても大した力は残っていなかったに違いない。虜囚はたちまち押さえ込まれて、なおもかすかに身をもがきながら横たわった。
「・・・驚かせやがる、あやうく死なせるところだったぜ」
ぐったりとしたその様子を見ながら、口から血のついた手を引き出して妖怪はぶつぶつ云った。殺生丸の真っ青な横顔をみおろしながら、妖怪はいささかとまどったような様子に見えた。
「なあ、おい」
今の感情の激発のせいで力を使い果たしたのだろう。弱々しく倒れこんでいる相手を、妖怪は腕の中に抱き起こした。
「なんでえ、お前、今の、そんなにいやだったのか、え?」
殺生丸は力なく蒼ざめた顔を傾けている。妖怪はまた云った。
「まさか舌噛むほどいやがるたあ思わなかったぜ。それともお前、こういうのしたことないのか。全然まるっきり知らねえのか」
「・・・」
「おい、冗談じゃーねえよ。なんだ、まるきりおひいさまなわけだな、え。男もろくろく知らねえのか、え、そうなのか」
「・・・・」
「・・・なんてこった、どうも、こいつはとんだ姫御前だぜ。またえらいのを拾っちまったな」
いささか勝手が違ったように、妖怪は腕の中の相手をながめた。
「何もそう死ぬほどいやがるもの、無理じいにさせようってほど没義道なこたしねえよ。おれはお前と楽しみたいんで、何も死なせようってわけじゃない。そんな錯乱状態で暴れられたってどうしようもねえやな。やれやれ」
舌打ち鳴らして妖怪は相手を抱えたまま立ち上がった。抱えあげられたままの殺生丸が腕の中で体をこわばらせる。それを見やって妖怪は眉をしかめた。
「そう青い顔をして固くなるな、もうあれはしねえよ。ええ、おひいさん、ちょいと傷つけちまったな」
気分の悪さに目を開ける気にもなれぬまま、殺生丸は自分の体がまだまといついている生絹の単衣ごと荒い莚の上へ横たえられるのを感じた。
「酒だよ、飲みな。気分がよくなる」
酒瓶が口元に押しつけられる。殺生丸は嫌々をするように首をふった。
「いいこだから言うとおりに飲んでみな、ほれ、一口でいいから、のどが乾いてるはずだぜ、さあ、いいから飲みなって」
もう頭も朦朧として物もよく考えられなかった。おしつけられた酒瓶にしぶしぶ口をつけると、妖怪が瓶をぐっとかたむけた。思いがけずまともな酒の味がして、強い酒の気がのどに流れこみ、胃の腑をかっと灼いた。乾ききったのどに強い酒は甘露のように沁みこみ、無意識に殺生丸は手を伸ばしてまた一口飲み、そのまま支える妖怪の腕にもたれて、残りの酒を喉を鳴らして飲み干した。
「へえー、酒のほうは一人前か、ま、そういうもんだな。ちょいと顔色が戻ってきたようだ。もっと早く手当てすりゃよかったな」
妖怪は相手の白い髪をはらって横にさせてやり、底に余った酒をのみほして瓶を放り出すと、そのわきにあぐらをかいた。
「どうも、そういうおひいさんに行き当たったともしらず、三下どもにさんざんもてあそびものにさせちまったから、こう神経がまいっちまったんだな。まあ奴らもちっとやりすぎだが、しょうがねえなあ。お前も男のことは確かに全然うぶってえか知らないんだな。お前があんまり強情はって逆らうから、やつらますます面白がっていいようになぶりものにしたがるのよ。も少し抵抗しないでおとなしくさせてりゃ、ああまでひどいこたぁされなくてもすんだものを。ま、おひいさんじゃなあ、あばれて逃げたがるのも無理はねえわな」
落ちていた長い袂の着物を上にかけてやりながら、妖怪は云った。
「ちっと休みな。今のお前相手じゃ何もできやしねえし、俺のほうもああ錯乱して舌噛み切って死のうとするほどイヤがられちゃあ、ちょいと萎えちまうよ。少し眠りな。安心しろ、眠ってる相手に襲いかかりゃしねえよ。手下どももお前にはさわらせねえ。少し眠るんだな」
横臥した殺生丸はほとんど聞いていなかった。ただ遠くで誰かが何か話しているようなぼんやりとした感覚しか浮かばなかった。もっと酒がほしいと思ったが、次の瞬間にはもう泥のような眠りにひきこまれていた。