縛妖索 三章 (四)


「犬夜叉さまは何と言っておいでじゃ」

「あいつぁただここで好きなだけ寝かしとけって、それ一点張りよ。よけいなことはするなっつーんじゃ。ただ好きにさせとけってな」

「ふーむ、犬夜叉さまがわかって云っているとは思えんが、しかし犬夜叉さまのカンというか本能は確かに正しいじゃろう。たぶん、殺生丸さまの心には、何か苦しい葛藤があるのかもしれん」

「葛藤、なー・・・難しいこというのう、お前も」

「ま、人間なら気鬱の病とでもいうところじゃが・・・」

 二人の老妖怪はいささか気づかわしげに、再び奥に横たわっている人影を見やった。柔らかな白い毛皮の上に銀色の髪が長く乱れて広がっているのが見える。蒼白な顔は天井の一角を向いたまま、ぴくりともしなかった。精緻な白玉を刻んだような美しいおもてはまばたきすらせず、そのせいでいっそう、その内心が緊張しきってはりつめた苦しい容態にあることをうかがわせた。 

もとより大人の男たちのことである。刀々斎も冥加もかしましい女どものようにむやみに心配したりべたべたとかまったりするようなことはせぬ。二人がまた顔を見合わせたときだった。 

「何が気鬱の病でい、くだらねえ」

 いきなり後ろから声がした。緋の衣の袖をはためかせ、外に雲母を乗り捨てながら犬夜叉は言った。

「おお、犬夜叉さま」

「犬夜叉かー、どうした」

「別にどうもしねえ・・・殺生丸、どうだ」

「んー、今その話をしておったんじゃが、なー」

「――よくねえのか」

「あんまり、なー」

(もう、十日近くたつってのに)

 犬夜叉は内心で不安にかられてつぶやいたが、口に出しては云わなかった。

「まだ飲まず食わずなのか」

「まーな・・・」

「・・薬と、蜂蜜持ってきた。蜜水くらいなら飲めるかと思ってよ―――」

「そうか。まー試してみるんじゃな。何もせんよりはマシかもしれん」

 刀々斎の仕事場の奥に、殺生丸は一人伏せっていた。犬夜叉はその脇に腰をおろした。

「・・・どうだ、具合は」

「・・・・・・・・」

「蜜水、飲むか。妖蜂のだけど」

「・・・・・・・・」

「殺生丸」

犬夜叉が肩にふれたとたん、殺生丸の全身がこわばるのがわかった。さわられるのが苦痛らしかった。

「殺生丸。おれだよ。犬夜叉だ。わからねえのか」

「・・・・・・」

声に引かれるように、殺生丸の白い顔が少し動いて犬夜叉のほうを向いた。犬夜叉はその少し面やつれした表情をのぞきこんだが、相手は何もいわなかった。

殺生丸には、犬夜叉がそばに来ていることも、心配そうに自分を見ていることもわかっていた。わかっていたが、その心の中は絶えず荒々しい吹雪にみまわれているようで、今もそれを抑えこむために絶えず全神経を集中し、あらんかぎりの精力と気力を注ぎこまねばならなかった。ほんの一言、指の一本さえ動かすのもつらかった。夜毎折り返される悪夢と自らの内心の波濤に翻弄されて、殺生丸は疲れきっていた。

「薬飲めよ。少しは眠れるかもしれねえから」

「・・・いらぬ」

つれない答えが返ってきた。殺生丸は眠りたくなかった。何もしなくても眠りは襲ってくる。眠れば悪夢にうなされるとわかっていても、わずかな休息を求めて、まぶたは落ちるのだった。

「眠ったほうがいいんじゃねえか」

当惑げに犬夜叉はつぶやいた。彼の妖怪としての勘は、なんとかして一時的にでもこの続きっぱなしの内心の責め苦を中断して休ませてやることができれば、それが回復の糸口になるのではないかと告げていた。犬夜叉が本能的に感じていることはあくまで正しかったが、問題は起きているときにしろ、眠っているときにしろ、その葛藤と悪夢の連続を断ち切る方法が見当たらないことなのだった。

「全然寝てないんだろ。ひどい顔色してやがる」

「どうもせぬ・・・だるいだけだ・・・・」

「だるいって、そういう問題かよ、ただ寝てりゃなおるってもんじゃねーだろうが」

 豊かなふさふさした白髪をふって、犬夜叉は心配そうに眉をしかめたが、兄はたったこれだけの会話にすら、もう疲れはてたように目をつむってしまった。

弟は困ってまたその顔をのぞきこんだ。いつも苛烈な戦いぶりで自分を圧倒する強力な兄のこんな弱々しく消耗しきった様子が、どうにも落ち着かず不安でならなかった。

 どれほど仲は悪くとも兄は兄――犬夜叉にとっては、知る限り今はこの世にたった一人残された身内であった。殺生丸がこんな極端な弱り方をするのを犬夜叉は一度も見たことはなく、それだけにかきたてられる不安は大きかった。

 救い出したときの状態でおおかた察しはついたものの、そのことを刀々斎や冥加に話すこともできぬ。さりとて、兄は自分からは何一つ助けを求めたりもしないので、犬夜叉はただそうやって一人で抱えこんで弱っていく兄を手の施しようもなく側から眺めているしかないのだった。

「いいから少し飲め、楽になるから」

無理やり犬夜叉は兄の口元に丸薬を押し付けた。殺生丸がいやがって顔をそらそうとする。犬夜叉はその体ごと抱え寄せてなんとか薬を唇の間へ押しこもうとしたが、殺生丸はいっそういやがってもがき、相手の腕をつかんで押しのけようとした。犬夜叉が無理やりこちらを向かせようと、髪ごと頭をつかんで引き寄せる。殺生丸が腕からもがき出ようと後ろへのけぞり、兄弟はつかの間、激しく揉みあった。

「ばかやろう、いいから言うこと聞けってば」

「・・・いらぬといったらいらぬ・・・手を、放せ・・・」

「飲めったら飲め、くそ、しまいに張っ倒すぞこの意地っ張りが、じっとしてろったら!」

「放せ!」

いきなり爪が青く光ったと思うと、殺生丸が毒の霧もろとも荒っぽく宙をなぎ払ったので、犬夜叉は兄の体を取り落として辛くも後ろへとびのいた。

「うわっ、ちち、何しやがる」

投げ出されて突っ伏したまま、殺生丸のほうは肩で激しく息をしていた。着物の衿が乱れて白い髪が絹糸の束のようにうなじへかかった。

「・・・だから、」

困り入ったように犬夜叉はつぶやいた。

「そう逆らわれたって、一体どーすりゃいいんだよ」

殺生丸は返事もしなかった。荒い息遣いが洩れてくる。少しばかり力が衰えていたとしても、素早い動きと妖力は依然として弟の犬夜叉を上回る。とても押さえつけられるものではなかった。犬夜叉はまたため息をついた。

 

                  

 

 

 


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