「殺生丸さま死んじゃイヤ!死なないで、お願い、殺生丸さま死なないで!」
「・・・・死なん」
すがりつく小さな体を見下ろしながら、表情も変えずに、殺生丸は云った。
「本当? 本当に大丈夫? 殺生丸さま」
「・・・・死になどせん」
ぶっきらぼうな調子で、殺生丸は繰り返した。では、さっき犬夜叉が驚いたのも、この体の冷たさのためだったのか。間抜けな話だ。妖怪が怪我を治しているのに体が熱かったり冷たかったりするぐらいで驚くとは。
「だって犬夜叉も殺生丸さまが死にそうだって思ってそれで・・・・」
「―――犬夜叉の早とちりだ」
言外にくだらん、という響きをこめて、殺生丸は云った。
「ほんと? ほんとに死なない? 殺生丸さま死なない? お手手が冷たくっても?」
「死なん」
「じゃあ大丈夫だよね。 殺生丸さま死んだりしないよね。 絶対に絶対にりんをおいて死んじゃったりしないよね?」
「―――うるさい」
「・・・・・・・・・・ごめんなさい」
しゅんとしてしまったりんに一瞥をくれて、殺生丸はふいと向こうをむいて毛皮で顔を隠してしまった。だが最後に恐ろしく無愛想な調子で投げかけられた言葉はりんの耳にも、こっそり様子をうかがっていた皆の耳にもちゃんと聞こえた。
「・・・・つまらんことをいうな、死なんといったら死なん。もう寝ろ」
小さな少女の顔がその一言でぱっと輝くのを、目のすみからちらりと見たなり、殺生丸がまた目を閉じてしまったらしいのを、弥勒はおかしそうに見守っていた。彼には、この泣く子も黙る大妖怪である犬夜叉の兄が、この小さな娘をなだめすかすのに内心閉口しているのがわかったからである。
(心配するなとか、安心しろとか、大丈夫だとか言えないあたりがね。恥ずかしがりやさんなんですかね―――そんなこと言ったら闘鬼神で串刺しにされそうですけど)
強情我慢で意地っ張りで、そのくせ照れ屋で素直でないところが、よく似た兄弟でもあるのだった。自分も眠ろうと目をつぶりながら、弥勒はまた少し笑った。
腹立たしい人間どもが、自分の様子を観察しているのを、もちろん殺生丸は感づいていた。
(ふん)
りんは冷たいという自分の投げ出された手をしっかと腕の中に抱きしめて、もう眠りに落ちていた。体の熱さがじかに肌に伝わってくる。人間どもももう寝てしまったようだ。殺生丸はまた黙ったまま、奇妙なものを見るようにその金色のひとみで腕にしがみついて眠る少女をながめた。
凶暴な剣、闘鬼神をやすやすとあやつる凄まじい力を秘めた腕であった。毒ある爪はあらゆる敵を溶かし、怒れば爪の一薙ぎで硬い妖怪の肌も泥のように切り裂き、血を分けた兄弟の体さえつらぬく非情な力を備えた腕であった。しかも少女はその自分の腕を宝物のように一心に抱いて眠っているのだった。
(りん)
その名を呼ぶとき、深い湖の湖面のように平静な心にわずかに波立つものが感じられる。それが何であるのか、殺生丸は知らぬ。知ろうともしておらぬ。だが、今もなお憧れ求めてやまぬ偉大な父と、そしてその妖力の精髄たる鉄砕牙を受け継いだ弟の犬夜叉、彼ら二人のほかに殺生丸の心にさざなみを起こすことができるのは、この小さな人間の少女だけなのだった。
(りん)
かつて、父の心にこのような思いが生まれたことがあったのかと、殺生丸が自問したかどうか。
月ははや天空を回り、じき曙の光がとってかわることだろう。殺生丸を苦しめた白霊山の霊気ももはや去り、流れる血は止まって、妖力の回復とともに傷も癒えはじめていた。
(りん)
明日にはこの地を去って、もう当分犬夜叉たちには会わないだろう。この次に彼らと会うときはおそらく奈落と一戦まじえるときだ。奈落は力を増している。白霊山で最後に奈落を取り逃がしたときのことを思い出すと、その閉じたまぶたの裏に抑えがたい怒りの炎が走った。
犬夜叉への想い、父への想い、少女への想い、そして当面の敵たる奈落への思い。殺生丸の心は揺れ動いてとどまらぬ。
その心の裡に去来するものは何か、恐れを知らぬその瞳が映し出そうとするのは何か。未来はいまだ描かれざる純白の画仙紙のように前途に広がり、殺生丸の手はその上にごくうっすらと己の未来の輪郭を描き始めたところにすぎぬ。その生き方にその夢にいかなる色あいをつけ、いかなる自分を描くのか、未来の自分のそのかたわらに描かれるのは誰か。すべては殺生丸、この誇りたかく優美な、一人の若い妖怪の手にゆだねられている。
旅は、まだ始まったばかりなのだった。
Fin