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淡雪の記憶: 其の七

殺生丸は、まだ逸楽のほとぼりの冷め切らぬ体にそっと絹の内衣を羽織ったまま外に出た。月はまだ皓々と空に輝いている。これから先何度となく新しい自分が見上げるはずの、それは最初の月であった。

彼は低い欄干にもたれかかり、庭園の広壮な築山と、池に映る月をながめた。妖力の印は白い頬に鮮やかに浮かび上がっていた。殺生丸はそっと指でそれをなぞり、その指先に光る妖しい妖毒を秘めた爪先を見た。

 ほっそりしたその爪はそれまでとは比べものにならぬほどの凄まじい猛毒を放ち、立ちふさがるあらゆる敵を溶かし、その喉を容赦なく引き裂くだろう。その爪にしたたる敵の血を舐め、その唇に味わうときのことを思うと、うずくような快感が身ぬちを走った。

水面に映る月がゆれる。殺生丸はその水面に映った自分のおもてがどのようであるかを知っていた。
 その切れ長の大きな金色の眼は、かつて持たなかった冷酷な光を湛えているはずである。稚さはその頬から失われ、代わってどのように追い詰められても動じぬ妖怪の冷静な色がその表情を支配している。眠っていた真の妖怪の酷薄さがゆるやかに自らのうちに目覚め、もう二度と去ることはない。

しなやかな四肢のすみずみにまで妖しい力が満ち満ちていた。妖気ははりつめて苦しいほどにその身を満たし、殺生丸は新たに得た妖力を使ってみたくてたまらなかった。ほとばしるその妖気が敵の体を切り裂く瞬間、ほとんど肉体的なまでの快楽が自分を酔わせるだろう。

父はもはや自分を子供扱いしなくなるとわかっていた。背中から歩みよる父のかすかな気配を殺生丸は敏感に感じ取った。以前にはどうしてもとらえることのできなかった気配であった。父もまた、自分がそれを感じ取っていることを知っているであろうと思われた。

「・・・殺生丸」

父がおだやかに話しかける。それは可愛いわが子ではなく、一人前の若き妖力の使い手と認めた相手に対する静かな呼びかけであった。息子もまた同じような口調で答えた。

「父上」

二人の金色の眼が出会い、互いの瞳の中に互いの変化を感じ取った。

 父はこの先、いかなる場合でも息子をそばから離しはしないだろう。自分もまた父のかたわらにあって、その闘いぶりを余さずこの目に納め、その偉大さを身を持って知ることになるだろう。

「早春の気は肌に沁む。朝までは結界の内にて休んでいたがよい」

父は優しく言った。

殺生丸は微笑を浮かべた。もとより目を引く麗質の持ち主ではあったが、たった三夜の間に、その額の三日月はいっそうけざやかに、その黄金の瞳は底知れぬ謎を秘め、一見なよやかなその美貌は強烈な誇りと意志の色を内に宿し、総じてその表情は己に倍する強敵をも必殺の一撃でしとめずにはおかぬ力を備えた若者のそれへと変わっているのだった。

(殺生丸め、やりおる)

父は静かな満足とともにその変化の様子を見守っていた。殺生丸は内心その手にした力をふるってみたくてはやっているに違いない。だが今は・・・

欄に拠って座っている殺生丸の背に歩み寄ると、父はそっとその雪のような髪を指ですいてやり、手を滑らせて背中越しにそのあごを持ち上げた。殺生丸はされるがままに半ば目を閉じて、快い愛撫に身をまかせていた。
 身をかがめた父の優しいくちづけの甘やかな味わいが、この上なく心地よかった。その耳元に、低いささやき声が聞こえる。

「殺生丸、明日は父に付き合え」

「はい」

「夕刻、妖怪どもを狩に出る。支度しておくがいい―――その気があるのなら」

伏せたまつげの陰で、殺生丸の金色の眼がおさえた興奮にきらめいた。

「・・・・はい」

「それとな」

ふいに声の調子がかわったので、殺生丸はちょっと戸惑って目を開けた。

「は?」

「もしその気あらば、晦日の宵にでもそなたの方から我が寝所に忍んでこい。今度はもちっと楽しい閨の手ほどきをしてやるぞ」

茶目っ気まじりに父が片目をつぶってみせた。

「・・ち、父上」

せっかく手に入れたばかりの取り澄まして大人びた表情はたちまちはがれて、殺生丸は耳まで赤くなった。

「父上こそ、どうして今宵ではなく晦日までのんびり待てだなぞ」

かろうじて殺生丸は反撃した。

「ばかもん、そなたのおかげで三日三晩も続けざまに付き合わされて、父はもう精も根も尽き果ててくたくただわ。まったく若い者にはかなわぬ」

父はおかしそうに笑い、そう言われると殺生丸はまるで自分がとんでもない好き者のように思われて、狼狽していっそう顔を赤らめた。

「そんなつもりで言ったのでは」

「よいよい、わかっておる。しかしひとつだけ言うておくが」

「?」

「閨の作法は知らずともよいが、あまり父が言い訳に困るような色っぽい声は出してくれるなよ。翌朝皆の者に合わす顔がないからな」

「父上!」

怒って殺生丸が投げつけた衣を軽々とよけて、父は笑いながら寝殿の奥へと消えてしまう。きまりが悪いやら羞ずかしいやらで、殺生丸は残りの帯も拾ってでたらめに彼方へ投げつけた。
 だがそうした子供っぽいしぐさの間にも、今はどこかでもう一つの冷めた心が自分のそうしたふるまいを見つめているのを、彼は知っているのだった。

(父上)

月が雪のように白い髪を悩ましげに照らし出す。その髪のかげで微笑を浮かべた若者の顔はもはや大人のそれであった。

                                                  FIN


 
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