回を追うごとに長くなりつつある雑記ですが^^、私には実は以前から大変気になっているある謎があります。それは、兄上の帰るところ。兄上は西国の大妖怪の父上の元で育ったようですが、今も西国に帰るべき家みたいなものを持ってるのかなあ、という疑問なのでした。
どうしてそんなことを考えるかといいますと、犬夜叉の長い長いお話の中でですね。今も本当に帰る家を持ってるのって、実はかごめ一人のように思えるからなのです。
他の登場人物は、ちゃんと自分の居場所、家にあたるものは持っていたのですが、しかしそれは今は失われて、帰る場所はないように見えます。
主人公たる犬夜叉からしてそうです。あまり恵まれないながらも、幼い頃はちゃんと愛してくれる母のもとで愛されて育てられています。その後母は死に、その最初の居場所はいったん失われてしまいます。犬夜叉は自分のいるべき新しい居場所を見つけようと模索し、かごめに出会い、新しい居場所を確保しようとしているわけですな。
珊瑚、弥勒も同様です。珊瑚ちゃんは父と一族のもとで育ち、居場所はあった。今は弟を残して全て死に、過去は完全に断ち切られ、里ももう彼女の帰れる場所ではありません。新しい家、新しい居場所が必要なのです。
弥勒法師もまた然り、父はいませんが夢心和尚とその寺という、ちゃんといるべき家があった。夢心和尚は今も健在ですが、今はそこは弥勒の帰れる場所ではありません。帰るところというのは、そこへ戻ってずっとそこにいられる場所というのを指すわけですが、弥勒にとって寺へ戻ることは右手の風穴を放置して戻るということ、すなわち死に至る道です。何としても寺を出、和尚のもとを離れて、生命に通ずる新しい道、未来につながる居場所を見つけなくてはならない。
もちろん父を亡くした小さい七宝の立場も上と同様です。
兄上も実はこの点は犬夜叉たちと同じ立場のように私には思われます。幼い頃はもちろん西国の父のもとで育ったでしょうが、やがて父は死に、殺生丸にとっての幼年期は終わりを告げます。もう帰らない。帰れない。たとえば目に見える物理的な形の家、城とか屋敷とかあるいは一族の誰かれや家来のようなものたちが残っていたとしても、もうそこは殺生丸にとっての家ではないのでは、という気がするのです。
父上は死にました。あの偉大な父に会うことはない。殺生丸にとっての最初の居場所だった父の元に戻ることは、もう二度とないのです。そして新しい自分自身の存在価値、牙、力、そして未来を求めて兄上は漂泊の旅を続けている。
小さいりんちゃんが最もこの過去から切り離された立場を象徴しています。一応親元で生まれ育ったことが暗示されていますし、家族を失って声を失うほどですから、親兄弟はりんちゃんにとって、ちゃんといるべき家の役割を果たしていたはずです。だがその後家族は死に、村での居場所はなかば失われて宙ぶらりんになっていた立場を死によって一度完全に失ってしまう。人間としての過去のしがらみは完全に断ち切られ、ある意味まったく自由な立場となって生まれ変わって殺生丸のそばにあらわれたわけですな。だからこそ人間の子供でありながら何者にも邪魔されず、殺生丸のそばにいられるのでしょう。
こうして見てまいりますと、なんといいますか、こう、共通項として、皆まがりなりにも自分の居場所をちゃんと持って育ってきた、ということと、同時に今はその居場所から完全に切り離され、新しい居場所を模索せねばならない、という立場の人々ばかりなのですねー。
帰る場所がない、というのは厳しいですが、逆に言えば帰る必要がない、縛られることがない、ということでもあります。私は犬夜叉一行、殺生丸一行の持つきわめておおらかな自由闊達な雰囲気に大変あこがれるものでありますが、この明るさは、この帰る義務から完全に解放されている立場だけの持つ自由さにもよるのではないかと思います。
帰るところがない、帰らなくていい、どちらもそれぞれ一長一短です。ここで言う居場所とは、物理的な家や場所そのものではなくて、心理的な居場所ということかもしれません。それぞれの揺籃期は庇護者のもとから断絶することによって完全に終わりを告げてしまっています。もはや帰りたくても帰ることはできません。その場所はだから決して失われてはいませんが、既に過去のものとなって、存在するのはそれぞれの心の中だけです。しかし、ちゃんと愛され、大事にされて、自分の占めるべき立場を占めて育つことができた証拠に、皆、自分を愛し、重んじることができる、真の自尊心というものを持っている。他人の評価を受身で待たなくては自我が維持できない、というようなことはない。自分で自分の価値を信じ、評価し、大切にし、自分で自分を守ることができる。他人に自分を守ってくれ、愛してくれ、重んじてくれとひたすら要求し、依存し、そうしてもらわないと生きていけない、なんてことはないわけです
逆にかつては居場所を持ちながら、逆に未来に居場所を持たない存在として、桔梗がいますね。
妹巫女の楓ももう彼女の帰れる場所ではない。決して人に嫌われているわけでもなく、さまよい歩く途中では、いろんな村人を助けたりして、死人と知らない人々は彼女を慕うのですが、にもかかわらず帰る場所を持たず、行くべき場所を定めない桔梗の姿はひどく孤独にえがかれています。犬夜叉の、共に死んで寄り添おう、とまでの切ない心遣いですら、桔梗の孤独を癒してやれない。
言うまでもなく、それは桔梗の望みが犬夜叉一行や殺生丸一行の進んでいる方向とは全く逆のベクトルへと進むこと、すなわち、過去に存在し、今はもうなくなってしまった彼女の居場所に戻ろうと志向しているからなわけでしょうねー。
巫女としての生活は彼女の真の居場所じゃなかったんですね。犬夜叉こそが彼女の居場所だった。だから死人の今も昔と変わらぬ巫女の生活をしていながら、それは彼女を満たさない。でも犬夜叉ももう昔の犬夜叉ではないし―――切ないですね。たとえばもし今父上がよみがえって、殺生丸に帰って来い、死人でもいい、父と一緒に生きよと望まれたとしたら、この犬夜叉の苦悩は兄上にも少しわかるのではないかなあ。父上とりんちゃん、どちらも選べないでしょう。死しても未来がなくても、でも今も敬慕する最愛の父、可憐であえかな、自分だけを頼りにしている小さな、しかし生命と未来を持つ人間の少女。
しっかしこうしてみると、犬夜叉は兄上の決して持たない半妖としての苦労だけでなく、こうした愛情に根ざした選択の苦悩にも直面しつづけているわけで、やはり主人公の看板下げてるだけに、背負わねばならぬ苦労は並々ならぬものがありますな(笑)
こうした人々の中でただ一人、異質なのがかごめです。不思議なことに、かごめだけは帰るところがあるんですね。これって考えれば考えるほど不思議なのです。なぜかなあ。
しかもですね。彼女には母、弟、祖父、友人、ちゃんと帰る家、そこへ戻ってずっと生き続けることのできる居場所が今もあるわけですが、それでいながら、そこへ帰るかどうかは全てかごめの自由にまかされているのです。休み放題でも友人も減らず、学校も彼女を今の家に縛りつけない。家族も決してかごめに戻って来い、向こうへ行くなと言わない。
帰る家という存在が持つ、行動の自由を束縛する足かせとしてのもう一つの姿、家族というものの負のパワーは、彼女を決して縛らないわけですなー。
よくあるパターンの、戦国時代へタイムスリップして現代に帰れなくなり、しょうがないのでそこで知り合った仲間とともに未来へ帰る方法を探しながら、冒険の旅をするうち、いつしか恋がめばえ・・・というのではないのですねえ。これだとどこかで過去に残るか未来へ帰るか、恋か家か、二者選択を迫られるのですが、かごめにそれはない。
犬夜叉の物語のもう一人の核であるかごめのこの、安定していながら一切のしがらみから解放された立場は、たとえば犬夜叉の元に残るか否か、といった究極の場面でかごめの決心に彼女の心、彼女の意志以外の要素が入り込む隙をなくしてくれます。かごめは少女の置かれた立場の理想、他の誰にも、何者にも邪魔される心配はなく、家族や学校を捨てる罪悪感も捨てられる不安も彼女を縛らないので、彼女は心ゆくまで恋をすることができ、ただ犬夜叉が好きだから、その想いだけで犬夜叉のそばに残るかどうかを決めることができ、犬夜叉もかごめが自分を好いてくれるから、ということを純粋に受け入れる、という描写ができる。
この一見マンガらしい非現実的な、しかし実はきわめて巧みなよく考えられた背景があるから、かごめと犬夜叉の恋が本当に理想のロマンスで、とても純粋に恋だけで、この上なく素敵で、またたまらなく甘やかに読者に受け止められるように描けるのじゃないかなー、と私なぞは思うのであります。
二人の恋の障害になっているのはただ桔梗とのもう一つの恋、というこれまたロマンチックな恋だけに見えるわけで、そうやって焦点が絞られるのも、他の俗っぽい障害がすべて排除されているからではないでしょうか。
この、かごめが居場所であり、犬夜叉がそこへ寄ってくる、という弟カップルと異なり、兄とりんちゃんでは明らかに兄が居場所で、りんちゃんがそのそばに生きていく場所を見出している。兄弟立場がまったく逆ですが^^、いずれりんちゃんが兄上にとっての帰る場所になっていくかどうかは作者のみぞ知る、といったところかなあ。
この、障害なしに恋の想いだけが支配できる世界に住める犬夜叉やかごめと違い、兄上とりんちゃんなんかは、描けばどうしたって障害がありまくりの恋にならざるを得ませんから、その分せつなくてその分激しく燃える恋になる、いわば障害によって純化される恋、ということになりましょうか。
二人とも家も家族らしい家族も持たないわけで、しがらみなさそうに見えますが、しかし純血の妖怪でいながら、他の妖怪からの排斥覚悟で人間を愛する立場、同族たる人間の仲間から完全に切り離されて妖怪の群れの中にただ一人、恋人だけを頼りに飛び込む少女の立場、いずれも同族の目という障害に縛られて爪はじきされ、つらい思いをすることでは同じです。
半妖である犬夜叉が現代で“ハーフ?”なんていわれて少しも排斥されないのとは対照的ですなー。
だから―――だから、りんちゃんはあんなに幼く、恋にはまだ手の届かない妹のような立場におかれているのかなあ。ひとたび恋に落ちたが最後、あまりにも苦痛で、あまりにも犠牲の多い恋になるでしょうからね。でも孤高の兄上といえど、一人では生きられない。やっぱり好いてくれ、すがってついてきてくれ、守ってやれるりんちゃんがいるから、だから殺生丸というひとが魅力的に見えるので、愛してくれる少女なしでは、やはり孤独な淋しい、冷たいだけの妖怪になってしまう。
小さなりんちゃんの存在は重要できわめて大きな存在ですが、でも恋はさせられない。犬かごカップル、弥勒と珊瑚カップルに比べ、兄とりんちゃんのおかれた立場の危うさ、不安定さを、この年の差によりまだ恋をさせない、ということによって、かろうじて支えているような気がします。