ドラマチックのイメージについて


 昨年とうとう終わってしまって残念至極のTVアニメですが、そのオープニングとエンディングを集めたDVDが発売されたのは近頃嬉しいお話でした。って、発売されたのはずいぶん前なわけですが、先日ようやくこのDVDを入手いたしました。
 しめしめ、これでテロップにも邪魔されずに画面がたっぷり楽しめる、というわけで、疲れた春の休日の午後、久々の犬夜叉をお茶とともに堪能いたしました。

 このオープニング&エンディング、いつも同じ人が描いてるわけじゃないんだろうと思うのですが、じつは見ていて非常に気になり、かつ面白いなーと思うのはこの演出に使われる背景のことであります。
 アニメですからキャラが出てくれば本来背景はなんだっていいはずですが、どちらかといえば、日常的な場面よりこう、なんといいましょうか、格好いい、見ていてさまになる背景を巧みに選んで描いているほうが圧倒的に多い。そうやって見ていると、へー、日本人が見てドラマチック、と感じる演出とか背景とかってこういうものなんだなーというのを大変興味深く思いました。

 たとえばちょうど季節ですが桜。一番最初のOPで非常に印象的でしたが、満開の桜の中、ふりそそぐ花びらを踏んで犬夜叉が独り歩いていく。華やかさと裏腹なはかなさ、淋しさ、孤独が強烈に印象づけられるシーンです。ですがこれ、満開の桜と散りしく花びらにもとからそういうイメージを持ってないとこういう演出にはならないだろうと思うんですねー。他にもいろいろ満開の花ってあるでしょう。菜の花とか、藤とか、菊とか梅とかあると思うんですが、桜なのです。いかに満開でも他の花にはならない。多分に日本人的な好みからいくと、桜にはこういう一抹の孤独を秘めた美しさ、みたいのがあって、ひたすら無邪気に華麗に絢爛に、というふうな捉え方はあまりしないもののようです。やはり散りゆくものの無常が裏にあって、だからこそいっそう花へのいとしさがつのる、というような、その切なさを感じ、味わう、そういう気持ちが、桜といえばお花見のできるレストラン特集(笑)というような現代生活の我々にも心の底にちゃんとひそんでいて、それがアニメにも出てくるのですねえ。
 逆に犬夜叉が仲間たちみんなと桜を背景に立っている場面もあって、こういうときは明るく楽しげです。桜の花に持つイメージの二面性を感じるところです。

 ちなみに、私の観察したところによれば、出場最多系はどうも紅葉のようです。夕映えの中の紅葉、湖面に映る紅葉、吹き散る紅葉と、ほんのワンシーンだったりしますが、よく出てくる。それも例外なくカエデ、つまりモミジです。イチョウもなかったし、ハゼの葉なんか赤くて素敵ですがこれもない。紅葉といえばモミジ、の定型イメージなんですね。泉や湖水に映る姿もありました。水面に散ったりしてましたね。物の本によれば、楓に流水は竜田川と呼ばれて、日本の伝統的なモチーフなんだそうです。
 伝統柄というだけで、そうそうアニメの背景にまで出てくるもんでもないでしょうから、やはりそこに我々が抱くイメージ、美しさと淋しさと孤独、内省、幻想的な状況を思い浮かべるとき、おのずから浮かび上がる一つの意匠なんでしょうか。あでやかで彩り豊かな、しかし迫る冬の前のほんのひとときのはかない華麗な光景です。

 春は桜、秋は紅葉、冬はといえば、ひらひらと舞い降りる粉雪も出てきますね。なぜかかごめちゃんが雪と一緒に二回くらい出てきましたが、意外に兄上は雪とは一緒に出てこない。毛皮を着ているのになぜかしらん(笑)舞い散る雪、純白の背景、雪も絵になる劇的な背景ということのようです。
 ドラマチックというのは劇的で、つまり非現実的な雰囲気をさしますが、雪もまたそういうイメージに合致すると感じるわけなのか。うーむ。
 夏の背景は晩夏の曼珠沙華や蛍だったように思います。暗闇の中に開く真紅の彼岸花、暗い夜にちらつく蛍の群れ、炎が踊っているような、暗くそれでいて情熱的な印象を見せるシーンです。夏は夜、という枕草子の一節を思い出すの、私だけかなー。
 実際これほど古典的な典型的なパターンである、桜、紅葉、雪、蛍といった季節とそれに連なるイメージが、この21世紀のアニメにはっきりと残っていることに驚かされます。

 一日の中でいえば、黄昏とか明け方、といった時間帯の描写も多かったです。金色の夕陽が差しこむ湖、夕映えの森の中、また朝焼けの雲がうす紫に細くたなびいているのなど、こう、非常に短い時間を切り取ったような一瞬の優美な場面に我々は劇的な印象を持つのかもしれません。そういえば桜も紅葉も粉雪も非常に短い間しか見られないものだもんな。

 あと忘れてならないのは夜と月。エンディングに多いのは夜ですし、やはり最も強烈かつ劇的な印象を生む代表なのでしょうね。流星なんてのもありました。
 余談ですが、私は一度ヨルダンはペトラの遺跡に夜、行ったことがあります。月夜でした。もちろん電気なんてものはない。あるのは月だけです。月の光があんなに明るいものだとは驚きでした。岩も景色も一変させてしまう。色合いも空気もすべて変えてしまう、月光の魔力とはこういうものかと思った記憶があります。ほんの少しの岩陰でも光が差さないと真っ暗で何も見えないのです。青い月光、とよく言いますが、あれこそまさしく青い光、見るものすべてを青ざめた白に染め上げる月の威力、夢幻の境地にひとを引き込む妖しい神秘の空間です。
 もうこんな月夜は日本ではなかなか見ることはできないでしょう。私たちの毎日の生活からは遠ざかっているはずのこうした光景が、こうして犬夜叉のエンディングに劇的な場面の演出として出てくるというのは不思議なことだと思います。本当に荒野に立って風に吹かれながらあんな大きい輝く月を見上げたことのあるひとって、少ないと思うのです。それでも劇的な光景を描くときそれが思い浮かぶという。こうした月や宇宙的な自然への畏れの気持ちというのは、目の前になくとも記憶の底で確かに遺伝し、受け継がれていくものなのかもしれません。

 背景じゃないですが必ず出てくる風に吹かれるシーン。アニメ的な演出なのかなあとも思いますが、髪や着物が風に吹きなびいている。深い森のときなんか、兄はなんもしないでただ風に吹かれてるだけだったもんな(笑)それで髪や毛皮が風にさらさらなびいてて、そしてどこか遠くを見つめている。
 なぜか、こういう姿にロマンを感じる、というひとは多いと思います。もちろん私もそう(笑)どうしてそうなのか、風に吹かれて立ち尽くす姿が、孤独や内省と何かしら抒情的な甘美な思いをかきたてるからなのか、物思いにふけるという行為、特に(美しい)若者が何か孤独にきびしく月を見上げたり、深く考えに沈んでいる姿が見せる一種の陰翳に非常に美を感じるというのはどういうわけなんでしょうね。翳がある、というのがたまらなく魅力なのですが、独りで風に吹かれている=翳があって魅力的、となる理由は何なのか、風が髪を動かすのに本人は微動だにしないから、それが何かはりつめた緊張感のようなものを感じさせるからでしょうか。

 ちなみに出てくる場所として最も多かったのは崖の突端と水辺。犬夜叉一行が最後にこういう高−いところからこう風景を一望するところに立って見おろしているのです。心が解放され、未来の開ける印象を受けます。高いところから景色を見おろすことを好む人間の性情がこんなところに出て来るのって面白いなあ。水辺ってのもユニークです。海辺、湖、泉、水の中、水のしずく、夜昼なくよく出てくる。何か居心地のよい場所、あるいは特別な神聖な感じを持つのかもしれません。

そういや原作では兄上はいつも崖の突端におられましたね(笑)むかし神楽姐さんとよくそこで出会っていましたが、これも人の近づき難いきわめてドラマチックな居場所ですなー。ただ私は鳥を飼っていて思うのですが、空を飛ぶ生き物ってこういう突端が好きです。空を飛んで移動したとき目に付くのは野っ原や森の中ではなく、上から見おろした時目立って突き出している高いところのてっぺんだからでしょう。だから兄上がよくああいう場所にいるのは、兄上がほんとはよく空中で移動していることを示す証拠なんだろうと勝手に思っています。
 
 いろいろ考えつつ見入ってしまうオープニングとエンディングです。兄上はもちろんですが、犬夜叉ってやっぱり非日常の物語の存在だからこそ、こうした非日常の劇的な背景に配してもピッタリくるのだなあとつくづく思います。
 現実と日常はいつも私の生活を追いかけて、離れることはありませんが、犬夜叉の世界だけはそれら全てから切り離されて、いつもドラマチックで劇的で緊張感に満ちて美しい。永遠に非日常の物語の世界がそこにあってくれる、だから私は犬夜叉が好きなんだなあ、と、見終わってあらためて感じたことでありました。

 

 




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