Hの書き分けについて


 こないだ、とっても面白い拍手が来ました。何かというと、いろんな相手とのHの書き分けってどうやって勉強したのぉ、というもので、管理人はマジで泡吹いて卒倒、いえあの、ちょっち驚きましたです、ハイ(笑)

 どうして殺生丸と特定の相手とのカップリングじゃないの?という素朴な疑問から出たご質問のようです。早い話が、父殺、犬殺(これは予定だけど)、奈殺、殺りん、と混在してるからなんでしょうなー^^)ゞ いろんな相手と兄上のHを書きたいんだろうなー、と思われてのことでしょう。
 普通は一つのサイトでカップリングは決まってるのでしょうから、こういう節操のないお話を書きつづってる以上、避けられない問いかも(笑)確かに下手すると兄上がめちゃくちゃ浮気っぽくてあちこちの相手と片っ端から関係持ってる、というようなお話になってしまうこともあるわけですしね^^ 

 しかし、これはある意味きわめて重要な、二次小説でHを書く際の核心に触れた質問であります。何ゆえうちではかくも大勢と兄上はHできるのか、と問いではこれはありません。それはとりもなおさず、Hということをどのようにとらえているのか、という書き手の心の根幹にかかわる問題なのです。

 うちのサイトについていえば、それはずばり、Hが恋愛だけの表現ではないから、だと思います。というより、私がHをそういうものというようにとらえてないから、ではないかと思うのであります。

 Hというのは、実は非常に単純なものです。あえていうならそれは挿入・抽迭・フィニッシュ・余韻、というくらいの一連の行為に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもありません。相手代わり場所かわれど、することは変わらない。それは変えようがないわけで、いろいろ工夫して四十八手の裏表だの何だのといろいろ試みられてはおりますが、しかし上記の一連の行為そのものには何ら違いはない。その行為にいくら言葉巧みに前戯とかああだこうだ描写してみても、その行為そのものの幅には限界がある。もともとそういうもんなのだ、というのが私の見解(笑)であります。
 たとえば我が家には小鳥がいて交尾しますが、それを見て、おお春が来たんだな(笑)、とかは思っても、別にそれ以上のことは思わない。上記の一連の行為を小鳥もするだけのことで、Hの行動自体には、何の感興も官能も刺激も覚えないのです。

 しかしながら、同時に私はHには実は非常にいろんな意味を持たせることができる行為である、という風にも考えています。なぜHをするのか、なぜHをしたいのか。それは情欲、肉欲を満たす、という単純なこともあるでしょうし、愛情表現であることもあるでしょう。あるときは征服欲の表れとして、またあるときは憎悪、ときには逃避、ときには慰め、憧憬、自信回復の手段、相手に優越したいという心理、相手の心を確かめたいという欲求をみたすため、もしかしたら単なる気晴らしや暇つぶしですらあるかもしれません。
 Hの行為そのものはすべて同じです。することはいつも一緒です。ただ、その行為が示す感情を考えるとき、そこには実は無限のバリエーションというものが存在するのだ、ということを私は書いていて思うのです。
 だから、うちのサイトでは、殺生丸はいろんな相手といろいろしておりますが(笑)別に重なることはない、というのが私の考えなのであります。
 たとえば殺生丸がりんちゃんと恋して、まあ行き着くところまでいったとしましょう。それと同じ思いで奈落と致す話、弥勒とXXする話があれば、それはHが重なるのではなく、恋愛が重なっていることになります。だからこれは兄上がいろんな相手とそれぞれの恋をする話をいくつも並行して書く、ということですね。もちろん、だから、すべてのお話で兄上は独立した別の人格になる。一人の殺生丸さまが弥勒と奈落と犬夜叉とりんちゃんと同時に恋愛する、というお話はあまり見かけない(笑)

 うちの兄上は逆にいうと、すべて一人の人格の兄上である、という前提で描いています。行為は重ねていますが、それぞれの相手との行為に持たせる意味が全部違うので、一人の兄上の身の上に起こったこととして見ても差し支えないと思っているからです。たとえば父上との関係はある種の儀式であり、愛情でありますし、奈落とのかかわりは兄上にとっては逃避であり、奈落にとっては一種の憧憬と支配欲のないまぜになった感情のあらわれといえましょう。縛妖索ではむろん征服欲の表現で、そこに相手側の一種の卑屈さと優越感とが混ざって出てきたりする。どれもそれぞれの相手との間にあるのはHという行為だけですが、その行為に与えられた意味が違うので、別にHそのものを書き分けなくとも、おのずからお話の内容は書き分けられてくる、ということなのです。

 Hの定義を、H=恋愛表現という一種類のみの等式で考えると、当然ながら特定の相手とのカップリングが成り立ち、その相手と以外のHは書かれない、ということになります。うちはHをいろんな感情表現の一手段としてとらえているので、別に浮気でなくとも(笑)複数のカップリングが成り立つ、というわけです。この感情表現方式をとらずに複数カップリングを試みるとどうなるかというと、殺生丸が非常に受身で、ひたすらいろんな相手に恋されまくる、という図式になる。これはこれで非常に官能的な構図でありますが(笑)これこそHの行為そのものの書き分けが必要で、非常に難しいともいえるのです。

 逆に言えば、恋愛表現=Hというわけでもない、と私は思います。誤解を恐れずに言うならば、Hは別段、究極の愛情表現というわけでもないとも思うのです。
 Hに多くの感情が含まれるように、恋愛にもH以外の多くの表現方法があります。殺生丸とりんちゃんや、犬夜叉とかごめの間に何の行為もなくっても、犬夜叉ははやっぱりかごめを恋し、殺生丸はあくまでりんちゃんを守る。守る、という行為が、恋愛の一つの表現となっている。Hがあろうとなかろうと恋愛は恋愛だし、愛情は愛情です。つらいときにそばにいる、話を聞く、贈り物をする、嫉妬や意地悪でさえ恋の一つの表現です。他の誰ともHをしない、ということが恋の表現ということだってある。犬夜叉がかごめにしたように、恋するあまり相手の死を恐れて突き放す、という逆説的な表現すらありうる世界です。
 Hは恋の一部分に過ぎません。それをきわめて重大な部分ととるか、他の表現とかわらぬ重みしか与えないか、それはそれぞれの人によって異なるでしょう。同様に恋愛もまたHという行為であらわされる数多いさまざまな感情の中の一つに過ぎない、というのが私の考えなのでした。

 書くということを前提に考えるなら、実はHそのものを目的としたお話はかえって難しい。へたすると単にポルノとしてのHになってしまう。それは確かに露骨である分、衝撃的でもあり、生々しく好色でもありますが、しかし思ったほど扇情的でもなければエロティックにもならない場合が多く、それがためにかなりの筆力を要求されるいわば最難関コースで、私は苦戦することが多いです。そうです。エロを書くのって、本当にとてもとても難しいですよねー(笑)
 Hなイラストを見るとき、必ずその状況にいたるシチュエーションをぱっと思い浮かべる人は多いと思います。このシチュエーションを必要とする心理、すなわちHの登場人物と両者の関係、それぞれの背景とその間に流れるHに至る原因となる感情こそ、Hをよりなまめかしく、色っぽく、官能的に感じさせるものなのではないかというのが、一番わかりやすい説明かもしれません。

 ま、ようするにそういうわけなので、たとえばまだ書いてない弥殺なんかですと、兄上とお互いにどういう感情を持ってからむのか、ということをまず考えるので、その部分の描写とかが長くなって、その中の一部にHが入るという形になりがちなんでしょうなー(笑)
その際のHの書き分けというものは、奈落のときだとちょっと受身で後背位だったから、弥勒が相手ならもっと兄上主導の騎乗位でいこうとか、そういうことではなくて(笑)兄上は弥勒を前にどう感じ、弥勒は兄上のことをどう思ったか、二人の間にどんな感情が働いてHという行為に流れ込むのか、ということを考えているうちに想像されてくるものを描くことで、おのずから書き分けられるのだ、ということです。

 このH=感情表現説、実践しますとはたからは乱交にしか見えませんから(笑)実際にやったりはしませんが、しかし現実に支配性向が強い男女は乱交傾向が高いそうで、たぶんその理由はこのH=恋愛だけ、ではない、という感じ方が基本にあるのではないかな、なんて思うこともあります。お話の上だけで書いていて実行しない私は、現実には支配性向の低い凡人ということでしょうか(笑)
 


 

 




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