なぜ化け犬に変化しないのか
映画3のときに思った素朴な疑問。なぜ、どうして兄上は叢雲牙との最後の戦いのときに、化け犬の本性をあらわして戦わないのでしょうか?
特に戦いの後半、闘鬼神がイカれてしまったというので、殺生丸は剣を投げ捨て、気丈にも素手で叢雲牙と応酬します。邪見が“さしもの殺生丸さまも素手では分が悪い”なんてハラハラしたりしますが、なしてここで本性あらわして闘わないの?化け犬の本性出したほうが、強いのではないの?それとも図体が大きくなるだけで、あれは単に張りぼてのはったりか?(→殴)
以前りんちゃんを奈落にかっさらわれて、怒って本性あらわして奈落を追いかけようとするシーンがありましたね。あのときは奈落のほうが一枚上手で、“本性あらわして自分を追うよりりんちゃん探したら”なんていわれて、兄上は内心むかつきつつもクールダウンしてましたが、ということはやっぱり本気で怒って追いかけるときは本性あらわしたほうが強いのかなあ。単に空を飛ぶときに足が速いからとかいう理由だけだったらどうしよう^^;)。
もっとも犬夜叉と最初に父のお墓の上で争ったときに化け犬の姿になったのは、そのほうが強いからというよりも、本物の大妖怪の姿を見せて半妖の犬夜叉を圧倒してやれという気持ちのほうがつよかったんじゃないかなと思いますが(あと一応化け犬モードお披露目ということか)
それにしても兄上はしょっちゅう戦ってますが、化け犬の本性をあらわすのは犬夜叉と鉄砕牙を争って戦った2回と、りんちゃんを取り戻そうとするとき、アニメで豹猫族と戦ったときのわずか4回だけです。少ない。やはり伝家の宝刀は容易には抜かないものと見えます。
まあ、アニメのときはちょっと別枠として、これらはいずれも殺生丸にとってかなり特別な場合でということなのでしょうか。共通しているのは、兄上にとり非常に大事なものを取り戻そうとしている、あるいは相手に激怒していて敵を圧倒したいという強烈な感情があることですね。
てことは、ただ敵を倒すためだけでは、変化しないということなのかなあ。白霊山でも、あの世とこの世の境にいったときも、結構苦戦してても変化しませんから、ほんとーに兄上が芯からとことん猛烈に怒ってるときでなければ変化しないようです。つまりはそれだけ鉄砕牙やりんちゃんが兄上にとって大事なものなのかー。
もしかして、兄上が変化するのは化け犬モードのほうが強いからとかどうとかじゃなくて、めちゃくちゃ感情がたかぶると人間の姿を保ちきれなくなって本性あらわしてしまうのだ、ということかもしれません。もとより冷静な殺生丸のこと、容易なことでは気持ちが昂ったり興奮したりはしませんが、その珍しい例が犬夜叉との争いであり、奈落にコケにされた(笑)一件だったんでしょう。考えてみると、クールな兄上がそうやって本性あらわすほど激烈に怒ったにもかかわらず、りんちゃんのことを持ち出されてすみやかに人型に戻ったというのは驚きですね。奈落にまんまと引き寄せられた上、一本取られて逃げられてしまったことは邪見にすら一目瞭然で、あとでそれを指摘した気の毒な邪見は兄上の八つ当たりをくらってボコボコにされますが(笑)、あのときはその怒りすらいったんは引くほど、りんちゃんのことを優先したわけですから、殺りんファンが萌えるのも当然ですな(^^;)
ま、ともあれ叢雲牙との戦いのときは追い詰められても最後まで冷静でしたから、本性あらわすところまで激怒っとはいかなかったようです。大事な父上を侮辱されて柳眉を逆立ててはいましたが、しんそこ逆鱗にふれるほどの大物ではなかったということかなー。
また叢雲牙も傲慢でイヤミな剣(笑)なので、初めはこの手に握って父上と並ぶんだ、なんて思っていた兄上は剣の値打ちに幻滅してしまいます。お前には失望した、という叢雲牙に、下衆な剣には捨てた腕がふさわしい、なんて手厳しく切り返していて、もう手に入れようなんて気は失せていましたから、それも化け犬姿をあらわして戦うほど興奮しなかった理由の一つでしょう。
それにしても、ヒーローを窮地に追い込むのはファンをキャーキャー言わせてストーリーを盛り上げる手段だからいいのじゃ、という映画製作元の考えは置いといて(笑)あそこまで追い込まれても本性出さずに終始冷静でいられたのは、やっぱりどこかで最後は天生牙、と思ってたのかもしれませんね。
なくして惜しい刀ではない、なんて言ってるくせに、“父上の牙なんだから光栄に思え”なんて言葉がすらりと出てくるし、獄龍破を浴びて危機一髪のときもその天生牙の結界を信じて踏みとどまるのですから、兄上の天生牙に対する思いはまことに複雑です。
その複雑な思いはそのまま、父への屈折した想いとなり、時に弟への矛盾した態度となってあらわれます。そうした心のひだに垣間見える翳が、殺生丸というキャラにより一層の深みと魅力を与えています。
映画では戦いのあと、鞘のお爺さんが、“お父上はご子息を信頼してすべてを任せたんじゃな”というのへ一言“くだらん”と言い捨てたのがなんともおかしかった。何が信頼だ、ふざけるな、やっとられんわ、守るものもへったくれもあるか!という、こう真面目に受け止めるのが照れくさくてイヤ!というやんちゃな心の反動が見え隠れしているようで、捨てゼリフもかわゆい兄君でした。